「鉄腕」アトムの誕生日って知ってますか?


原作では2003年4月7日。


手塚さんの描く世界の中では、人類社会は1990年代あたりからいわゆる本格的な人型ロボットを開発製作し始め、便利な労働力として手に入れることになっていたように思います。


現在、2009年、アトムはいません。


僕にとって「鉄腕アトム」というのはアニメよりも漫画世界の登場人物であり、子供の頃に読んだ「鉄腕アトム」の世界は、はるか遠い未来のお話でした。


科学は、ある意味1960~1970年代にSF作家が考えたものとは大きく形を変えて進歩しているみたいですね。


携帯電話やPC、それらを端末としたインターネット社会というものを現在のようなスタイルのままで予測していたものって、少なくとも僕が読んでいた範囲ではまったくありませんでした。


「ウルトラセブン」の中では腕時計型のテレビ電話みたいなものが出てきていましたけど、あれって系統が現在の携帯電話とはまったく別のもの、という印象があります。

通信手段ではあっても、情報端末ではなかった。


情報がデジタルとして数値化され、コンピューターが小型化して一般家庭に普及することで誰もが自宅にいながら、或いは外出先でも簡単に世界中の情報を検索できる現在の人類社会をストレートな形で予測できた人って、僕の子供時代には誰もいなかったんじゃないかな。


たとえば現在でもコンピューターに求められているものって、あくまで演算処理能力の高さ、速さであって人間のように考え、感じることとは別の方向に進んでいるような気がします。

むしろ、人類社会のほうが演算処理能力をコンピューターのようにすばやく合理的にすることを求められていて、コンピューターの進化の方向にひきずられているんじゃないかって。


ニュースで見る限り現在でも人型ロボットの開発って進められているようですけど、どうやら、いつまでたっても人類社会の中には「アトム」も「マジンガーZ」も合体型巨大ロボットもモビルスーツも使徒も現れないみたいです。


あれなんですよね、人の形って、人として生きること以外では非常に不合理な形態なんでしょうね。


力強さを求めるには脆く、速さを求めるには鈍重で、賢くも無いという(笑)。


ですから数あるロボット物のアニメや漫画って、「リアル」とは無関係な世界の物語、という風に感じられます

閉じた物語の中での「リアル」はあって、それは登場人物たちにとっては深刻で切実なものではあるんでしょうけど。


SFというジャンルの中にはヒロイックファンタジーという系統がありまして、架空世界の中で繰り広げられる「剣と魔法」、筋骨たくましい戦士と、薄衣だけを見にまとった美女が登場し、冒険と戦いを繰り広げる独特な世界観を持つ物語なんですが、これって一部では「オリジナルな神話を持たないアメリカ合衆国市民が生み出した神話的物語」みたいに言われていたりしました。


日本におけるロボット物のアニメや漫画の一部にも、そうした「神話」的な作用があるのかもしれませんね。


ロボット物、といっても一括りにはできないわけで、まあ僕なんか門外漢もいいところなのでざっくりとしか分からないんですけど、浅薄な知識を総動員して考えても、たとえば「アトム」と「マジンガーZ」は異なっているし、おなじ戦闘ロボットといっても「マジンガーZ」と「コンバトラーV」は違うし、同じく「マジンガーZ」と「ガンダム」も、たぶん「ガンダム」と「エヴァンゲリオン」も違うんでしょう(作品としてのオリジナリティとかとは別の、系統としても)。


「アトム」の物語は、手塚さんの作品の多くがそうであるように寓話、あるいは寓話的であって「ロボット」という「非・人間的な存在」の視線で人類社会の矛盾や醜さ、愚かしさが生傷をえぐるように描かれています。


「マジンガーZ」は、これも永井豪さんの作品の多くがそうであるように神話的で、その背景には壮大で多層、幾重にも重なった世界観が在しています。

「マジンガーZ」の物語は、永井さん自身、または永井さんの弟である永井泰宇(やすたか)さんによってサーガと言っていいほど多くの派生作品が描かれていて、なんと「バイオレンスジャック」の中にさえ登場してきますね。


「マジンガーZ」に存在する神話的な構造というのは、その後のロボット物に大きな影響を与えて「勇者ライディーン」とか、あとなんだったかな、映画版のラストで登場人物が敵味方全員滅んでしまって、それらの魂が地球の命の源となる、みたいだったやつもありましたよね。


その後同じく永井さん、というよりは石川賢さん(この人が亡くなった事実には打ちのめされました)の合体物「ゲッターロボ」が出てきてしばらく合体ロボットが流行り(機動性に優れているだろう形態から、明らかに鈍重になる形態に合体するという不思議)、それもさすがに「ロボットプロレス」なんていう批判を受けて下火になり、僕自身が小学生から中学生になって(1970年代後半)あまり「マンガ」番組を見なくなるその油断に乗じて。


「モビルスーツ」という、ロボットとは違う呼称を思いついたことで、その後アニメの中の「ロボット物」というジャンルに永遠の生命を与えてしまう「機動戦士」が地味に、でも全国的にその信者を増やしていってたみたいなんですな。


「ガンダム」に関しては年代的にはたぶん中学校二年生か三年生の頃だったはずなんですが、放映中はまったく知らないままで、初めてその名前を聞いたのは同じクラスの女の子から「ガンダム再放送のための署名」を求められた時。


その、あまり、え~、可愛らしいとは言えないタイプの女の子が言うのには「ロボットが出てくるけど、今までのものとはまったく違う」「奥が深い」アニメ(アニメってその頃、もうこの言い方が使われだしてたのかな?)ということだったような記憶があります。


ただ、その子のあまりにも熱心な様子に「ロボット物」への情熱が冷めてしまっていた僕は、今で言うなら「ドン引き」してしまって、「ガンダム=ちょっと、あんな感じの子が夢中になるやばいもん」という刷り込みを自分にしてしまいまして、今現在に至るまでガンダム物のエピソードを一話分でさえ通して見たことがない、という人生を送っています。


僕の中のロボットって、たぶん「アトム」で止まっちゃってるんですね。


1999年を無事に過ぎ、夢の21世紀を迎えても人類は宇宙に進出もせず、ロボットも開発できなくて、戦争は枠を狭め、でも箇所を増やして終わることが無い。


実現されなかった、そしてこれからも実現されることの無いだろうあの頃の未来社会。


同じ社会の一員として共に同じ街で暮らしていたかもしれない「アトム」たちは、遠く離れた並行宇宙の中で幸せに過ごせているんだろうか。

あの足音を聞くことは出来ないんだな (・~・)