前回の最後に挙げた曲名は、数パターン存在するPerfumeのリップシンクのスタイルを理解するうえで比較的わかりやすいものになってます。


「エレワー」は、かつて「被せ+生歌」だったものが、段々と「被せ+生歌」となりさらに「被せ+生歌」くらいになりついにはほぼ「口パク」状態になっていく、というパフォーマンスの変遷をたどっている曲です。


「PSPS」「マカロニ」は、「被せ+生歌」といっていいくらい本人たちは歌っているのにマイクに音声が乗らないことが多く、「BcL」「ラブワー」は曲の一部は実際に歌っているもの、「TSPS」「ディスコ」は、曲が発表されたごく初期から生歌をともなわない「口パク」状態がほとんどのもの、という感じじゃないか、と思われます。


動画で確認しただけですし、2007年の年末くらいまではほとんどの曲が「被せ+生歌」くらいのライブ披露だった、ということを前提にしながらも、だんだんと増えていくテレビ出演や飛躍的に大きくなっていくイベントの規模の中でPerfumeは徐々に「リップシンク=口パク」の比率を高めていきます。


ただ、その判別、声を出して歌っているか口パクか、という判別は、当たり前のことですが非常に分かりにくくなっています。


「ディスコ」なんかは分かりやすいんですけどね、特に最近は必ずといっていいほど曲の合間にあ~ちゃんの煽りが入りますからマイクはONになっていて、でも本人たちの声は聴こえてこない(時折のっちのソウルフルな『ディスコッ』という声が入ったりしますが)という場合がほとんどですから。


やはり歴史と変遷をたどる上で一番重要なテキストになるのは発売されてから2年半の間常にPerfumeのライブとともにあった「エレワー」になるんじゃないか、と思います。


そしてテキスト上の指標のようなものになるのがのっちです。


「エレワー」の動画については、おそらくもっとも古い動画になるんじゃないか、と思われるのが2006年7月9日にアキバスクエアで行われた唯一のシングル「エレワー」としてのインストアイベントにおけるライブ映像です。


曲の始まりを告げる音の後、のっちのソロパート。

口の形に注目してみてください。

この時のっちは実際に歌っていて、マイクは音声をかすかに拾っています。


それから約2年後のNHK「トップランナー」の中で行われたミニライブコーナーでの「エレワー」を見比べてみると、口の開き方がより大きく、はっきりとしたものになっているように感じます。


のっちは目にしろ口にしろ造作が大きく、したがってその動きもわかりやすく大きいことが多いのですが、「TR」の頃の口の動きは実際にその言葉を発するにはやや大きすぎるんじゃないか、という気がします。


大きすぎて空気が漏れすぎてしまうんじゃないか、と。


「エレワー」はポップソングであって、声楽的な発声は必要としませんから、自然な発音をしようとすれば歌うということを前提にしてもそれほどはっきりと「あ」なら「ア」、「お」なら「オ」という口の形にならなくても歌えるんじゃないか、と思います。


「エレワー」は、数多く披露されている曲なので比較することが容易なんですが、この傾向、実際に音声を発していない場面で口の動きがより大きくなることは、Perfumeの「口パク」状態が比率を高めていく中でどの曲にも現れているんじゃないか、と感じています。


ただ、これは本当に微妙な問題で、もしかしたらのっちはそれでも曲始まりのソロパート部分ではマイクが拾おうが拾わまいが歌っているのかな、という気もするんですね。


おそらくPerfumeは歌のボイトレ以外にもお芝居に必要とされるエロキューションに関してもレッスンを受けているはずなので(それがPerfumeの非常に明確な歌詞の発音に役立っているんじゃないか、と思います)、口の開きが大きめになることもありなのかな、という感じも受けます。


Perfumeのリップシンクが上手に見えるのは、マイクに拾わないだけで実際に歌っているからじゃないのか、と考えれおられる方も多いんじゃないか、と思いますが、そこの部分を非常に判別しにくくしているのが、のっち、なんですね。


彼女の豊かな表情とはっきりとした口の動きを見ていると、実際に歌っているようにしか思えない。


のっちの表情はたとえば「笑顔」、「笑顔」終わって、「切ない顔」という時間的なぶつ切り状態になることがなく「楽しそうな笑顔」~「ちょっと困った笑顔」~「困惑」~「悲しみ」~「切ない顔」という感情表現が短い時間の中で連動する複雑な過程をたどります。


そして、のっちの抜群のリズム感は歌詞と口の動きのタイミングのズレを消します。

常に音源が同一である、ということがタイミングのシンクロナイズをさらに高めています。


基本的におすまし顔と笑顔の2パターンであるかしゆかと、喜怒哀楽の表情が直球的に表現されるあ~ちゃんに較べると、のっちの表情というのは時に逆説的ですらあります。


辛く、切ない感情を歌う時に笑顔を見せたり、突然に表情を失って人形のようにうつろになったり、かと思えば激しいダンスの途中にアヒル唇になって子供みたいに見えることもあれば「シクシク」を「歌って」いる時には女豹のように見ているものを挑発してきたり。


口の動き、タイミング、表情、自然な身体の動き。


のっちは「リップシンク」に必要とされるだろう基本的な要素のすべてを非常に高いレベルで実現することが出来る「リップシンクの天才」です。


木の子さんの歌詞の時代にはさほどメンバーに較べて突出しているようには見えなかったパフォーマンス中の感情表現は、中田さんに歌詞の時代に入って突然に深度を増します。


それは、「コンピューターシティ」という、中田ヤスタカプロデュースになって5曲目のシングルにしてようやく自分たち自身が好きになれる曲を得たことによって、より楽曲世界への感情移入が深まり、積極的に自分たちなりの解釈を考えるようになったこととリンクしているんじゃないか、と思います。


特にのっちの中には「のっち解釈」と呼んでもいいような、他のメンバー2人とも違う独自の歌詞の読み込み、があるような気がします。


素人考えなんですが「歌う」ということは、単に音程を正確にたどり、歌詞を明確に発音しさえすればそれでいい、というものではありませんよね。


楽曲の中に存在する独創性が演者の解釈によって、作者も想定しなかったレベル、高みにまで押し上げられる、というのはクラシックでもポップソングでも変わらない真実であるような気がします。


Perfumeは音源となるCDのボーカルトラックの中で強力なエフェクトをかけられることで「音声」による楽曲の解釈にどうしても制限を受けてしまいます。


中田さんによるボーカルエフェクトというのは、感情表現を自分の許容範囲内におさめるため、というよりは「音」としての純度みたいなものを確保するためのものなんじゃないか、と思うのですが、それでもピッチ補正プラグインの機能は楽曲の表現にまでエフェクトをかけてしまうことがあります。


Perfumeのパフォーマンス、独特な動きによるダンスと豊かな顔の表情によってもたらされる彼女たちの「歌」は、ボーカルエフェクトという枠、制限をぶち破って僕たちファンに届きます。


それがPerfumeにおける「リップシンクというパフォーマンス」がもたらす恩恵なんじゃないか、と僕は思います。


そのPerfumeのオリジナルなパフォーマンスを引っ張っているのがのっちであり、だから僕は自分の推しというものには関係なく、彼女を「Perfumeのエース」と呼んでいます。


ボーカルエフェクトという制限、枠組みが強固になった三部作の時代、その枠組みに押しつぶされずファンの前で誠実に「歌って」きたことが、Perfumeのパフォーマンスに新しい息吹を吹き込みます。


Perfumeの楽曲の世界観とパフォーマンスにおける表現は徐々に徐々に融合の度合いを深め。


解散の危機の中で生まれた


パーフェクトスター・パーフェクトスタイル


によって完全に不可分のライブスタイルとして完成します ▽・w・▽