このGAMEにおさめられた


TSPS

チョコレイト・ディスコ

Baby cruising Love

マカロニ

セラミックガール

シークレットシークレット

Puppy love


は、アイドルとしてのPerfumeの存在証明(アリバイ)となる7曲だ、と思います。

数年後、Perfumeの活動が振り返られた時、この頃のPerfumeはバリバリのアイドルとして活躍を期待されていたんだな~、ということがはっきりと分かるのではないか、と。


このGAMEは、よくコメントをいただけるたなbさんがご自身のブログを仰っておられるとおり、「アイドルとして」最高峰の高みに達したアルバム、という評価がふさわしいんじゃないか、と感じます。


ここからは僕の考えなんですが、アイドルのPerfumeがアイドルとしての枠組みをはみ出し、違う何かに(それがアーティストである必要はあまりないんじゃないか、と思います)踏み込もうとする姿勢を見せたことが、このアルバムに感じる「ポップだけど実験的でもある」という立ち位置を決定付けたんじゃないかな、思いました。


ここで言う「実験的」という言葉の意味は、たとえば


GAME

Take me Take me

Butterfly


といった3曲がライブでの再現が非常に難しいだろうな、と感じる作品になっていることに対する感想です。


枠組み、という言葉には制約に縛られた、とか条件の限られた、といったあまりよくないイメージがついてしまってますけど、創造的な活動をする際には理想的な条件なんじゃないかな、と思います。


枠組みを決められてしまうこと、固定したイメージを押し付けられること。


そこからはみ出そうと踏み込む姿勢、逸脱しようとする意志、が創造的な活動のエネルギー源となるんじゃないかな、と思いました。


おなじみの自己紹介、シャラシャラの衣装、笑いを取りにいくトーク、はっきりと区分けされた3人のイメージ。


Perfumeのキャラクターは完全にアイドルのそれですよね。


楽曲が当代きっての一流アーティストの製作だからといって、彼女たちまでがそのままアーティストになるわけじゃない(もちろんアーティストになること、がよりレベルが高いこと、というわけでもない)。


むしろ、等身大の女の子の気持ちを歌う曲が増えたことによって、擬似恋愛の対象にならない存在から、こんな子が傍にいたら好きになっちゃうよな、と誤解してしまう存在=アイドルの王道、により近づいたんじゃないか、とさえいえるんじゃないか、と思います。


さて、相変わらず前置きが長くなってしまいましたけど、この


セラミックガール


最近のPerfumeの楽曲のメインテーマとなりつつある、好きなのに、けっこう幸せなはずなのに何かが足りない、ほんの少しだけど決定的な何かが満たされない、思いの全てがけっして届くことのない恋、を歌っています。


ただ、今回はどちらかというと、歌詞の主人公の女の子より相手の男の子の方がよりもどかしい気持ちを味わっているだろう、という点が今までの曲とやや違うところかな、と思いました。


この「セラミックガール」の世界では、相手の男の子は積極的、今の曖昧なところよりももう一歩踏み込んだところまで二人の関係を進展させたい、と思っている様子がうかがわれます。


二人で素敵な朝を迎えたい、と。


でも女の子のほうは「う~ん、それはちょっと…」とためらっている感じですね。


その関係は今の自分にとってまだ必要じゃないんじゃないか、という疑問。


相手に不満があるわけじゃなく、本当に好き、という気持ちがあるだけにこのためらいは残酷です。


女の子側のためらいは、恋愛にだけ向けられたものじゃなくて、この毎日を当たり前と思ってていいのかな、みたいなもっと大きくて漠然としたものに向けられている感じなんですが、それは相手の男の子にとっては何の慰めにもならない。


まったく、女の子ってやつは。


おじさんになっても、昔の傷が痛み出すような(笑)もどかしい気持ちになるラブソングです。


いや、ほんと女の子ってやつはさ…▽-w-▽