百島やるなぁ。
おじいちゃんおばあちゃんはみんな笑顔で挨拶してくれた。
あったかい。

 

「あいちトリエンナーレ2019」の一環として公開されていた「表現の不自由展・その後」

公金を使う以上、「なんでも自由に」とはならない。

公金を投じ発信力のある「場」を、「表現の不自由展・その後」に貸したとが問題。

 

学問・芸術・個人の自由を振りかざせば、税金を自由に使えるものだと誤解している人が多い。


今回の件は、問題の展示物をあいちトリエンナーレでは展示しないというだけであって、他の場所での展示まで禁じたわけではない。

 

芸術作品に政治行政は介入するな! 表現の自由を侵害するな! と叫ぶ人たちは、逆に、ヘイトスピーチだ! 女性蔑視だ! 人種差別だ! 政治行政は介入しろ! 規制しろ! と騒ぐ者が多い。


自由を振りかざし、政治行政の介入を徹底的に排除することには大きなリスクがあることも認識しなければならない。

 

芸術も表現も、場合によってはヘイトにもなるし、女性蔑視にもなるし、人種差別にもなる。個人の人格攻撃にもなる。

このような芸術や表現が許されない事は言うまでもない。

つまり、芸術や表現は完全なる自由ではなく、やはり制約を受ける

アウトかセーフかのラインを明確に引いて、絶対的に正しい判定ができる者など、まず存在しない。 

だからこそ、プロセス・手続きが重要。

 

「公金を使っている以上、反日的な表現はダメだ」は公人には許されない表現だ。
もっと整合性を持って議論に打ち克たねば何も変わらない。

 

公金を使って「一方的な」政治的表現をサポートすることは許されない。

 

政治的表現であっても、機会を平等・公平に与えているなら、公金を使っても問題ない。

 

今回問題となった作品は、慰安婦像や昭和天皇の肖像を焼く作品など、どちらかと言うと反権力の立場からのものだ。


天皇陛下へのあのような表現手法を是として、戦争や明治憲法下の天皇大権を礼賛し、日本の軍部の行為を全て正当化するような作品だったらどうだったか?

手続き的な公平性が保たれているかどうかが重要。

 

慰安婦像を作品として展示するなら、一方では多額の報酬を得て自由に生活していたという主張もあるので、それを表した多額の現金を持って片手ににっこり微笑んでいる像など、こんな像を展示すれば、慰安婦像にこだわる立場の人たちは怒り狂う事は容易に想像できる。

 

では、天皇陛下に対する表現に関しても、個人や先祖を侮辱するような作品もダメなのは明らかだ。

「表現の不自由展・その後」行委員会関係者の先祖の肖像を焼いた作品を展示してみたらどうなのか?

個人の肖像を焼いたり、亡くなった者を間抜けだと揶揄したりすることは、名誉棄損的・侮辱的な表現として許されないとするだけで十分。

では、公金を使わない民間イベントならいいのか。という意見は全く違ってくる。
 

死者を含む個人への名誉棄損的・侮辱的表現は、公金が入ったイベントだけでなく、民間イベントでも許されない。

 


 

基準が不明確なまま事前に禁じることを認めれば、何も問題ない表現まで禁じられる危険性が出てくる。

時の政治権力が、自分たちに都合の悪い表現行為を「ヘイト」として禁じてしまうれも出てくる。

 

事前には禁じず、事後には審査する。
掲載内容は場合によっては刑法犯として処罰される場合があるし、民事上の賠償責任を負わされる場合もあるが、これらは裁判所によって事後的にヘイト認定された場合であり、時の政治権力が事前に規制する事とは異なる。

 

平和集会や教育的集会、人権集会などであっても、政治的要素が少しでも感じられるものには、広島県・福山が協賛者、後援者として名前を貸すことは一切禁じるべきだ。

そうなると平和・人権に意識がない街といわれるかもしれないが、それは違う。

 

基準があいまいなまま、政治的要素の入った集会やイベントに広島県や福山市という公権力が協賛者・後援者として名前を連ねることを許すと、今度は公権力が、自分たちに都合のいい集会やイベントを後押しする危険も生じてくる。

 

県や市に好かれれば、府・市の協賛・後援をとることができ、嫌われればとることができないという不平等も生じてくる。

では市民ホールや公民館においては、政治的要素が入ったとしても「全ての」集会(表現)活動に利用を許し機会の自由は存分に与えるべきだ。
一方で重ねて言うが、政治的要素が入った集会・イベント(表現)活動には、県や市が協賛者や後援者として名前を貸すことを「一律」禁止する必要がある。