本日も朝起きたら手を合わせます。
福山城天守閣を含め焼け野原にされ354人の方がお亡くなりになりました。
火薬原料を作っていた日本火薬
爆撃照準器を作っていた三菱航空機
帝国陸軍歩兵41連隊司令部
アメリカの正義の名の下に数多くの一般市民の犠牲者に至りました。二度と戦争を起こしてはならない。
そんな中で人々は経済戦争という新しい人の命を絶つ戦争を繰り広げようとしています。
そんな中で福山の礎を創った水野勝成公のご紹介。
徳川家康の従兄弟で15年全国を放浪した。
気性が激しく逸話も多い傾奇者と言われていた。
・16歳初陣で15も首級をあげる
・19歳で2000人対1万人圧倒的多数を撃退。わずかの手勢で奇襲をかけ北条勢を大混乱にし、首級300を道に吊るし、敵の士気を完全に削いだ。
・兜なしで一番首
・21歳で父の部下に悪行を密告され切り捨てる。激怒した父は業界出入り禁止のお触れを出す。
・15年間の放浪で戦国最強のフリーランス・虚無僧・姫谷焼の器職人など。
・秀吉死後に家康の下で門番をしていたがすぐに業界出入り禁止なのでバレる。
・家康が強引に親子仲直りさせる。
・和解後、父は石田三成の手のモノに暗殺され刈谷3万石を受け継ぐ。
・関ヶ原の戦いで大垣城を攻め落とす。
・大坂夏の陣では息子(宮本武蔵が護衛)参戦し、軍の最高責任者でありながら先陣に立ち一番乗りを果たし家康に怒られる。
当時51歳(笑)
・破天荒が一転し福山で名君
・75歳で島原の乱に息子・孫と3代で参戦
・城主となり備後国10万石の領主になるが1622年には石高に比して破格の規模である五重五層地下一階の天守閣を持つ城主となり福山と名付ける。
・芦田川のデルタ干拓による城下町の建設・綿花栽培の奨励によって繊維産業の育成や上下水道の敷設、戦国時代以来荒らされていた神社仏閣の修理・再建など領内の治政に力を尽くした。
外様ひしめく西日本に釘を指す意味で勝成公の配置が施されたのはいう間でもありません。