福山市に必要な人財86「福山市の教育偏重」
福山市内の小学校では「とうげ」と呼ばれる福山市教育委員会発行の解放教育読本が副教材として用いられ、例えば、低学年では「かわいそうなぞう」、高学年
においては「人柱お糸の物語」という史実に基づかない伝説さえも採り上げられ、戦争の悲惨さや差別の過酷さが繰り返し教えられた。
また、国旗掲揚率は掲揚が義務化された1989年の段階で、福山市は全国最下位レベルの広島県の中でも更に低く、小学校で約40%(全国平均95.7%)中学校で40%以下(全国平均95.5%)高校では0%(全国平均95.5%)であった。
私もとうげというモノを学びました。
歴史は一部だけ切り取って話してはならない。
実際に人柱という存在も、確かに飽食の時代にはありえない事だが、この時代は餓死する事も多々あった。その一部を切り取り単純に昔の人は残酷だ!とかアホだとか、断定的に捉えるにはあまりにも思考が短絡的。
科学的に何も証明できない以上は、何かに頼らざるを得なかった事実もある。時代と科学を直視する事が差別を減らす事に繋がります。
福山市に必要な人財87「荒廃した教育現場」
平等という名の不平等の結果、解放教育による通常の授業時間減少や形式的平等主義の定着などにより、1990年頃までに市内中学校の学力は全国でも底辺に位置するようになりました。
また、こうした動きに抵抗する学校管理職や教師に対する「糾弾」などにより、1981年の桜丘小学校校長自殺を始め、1976年から1982年にかけて広
島県東部で教育関係者の自殺は14名にも上った。この状況は1997年に「ゆがんだ福山市教育の実態」としてマスコミに報じられると、国会においても取り
上げられ、1998年4月1日の参議院予算委員会に市内中学校の教諭が参考人として出席し、授業が成立しない、生徒が教員に暴力を振るうといった「荒れる
学校」の実態を生々しく証言し関係者に大きな衝撃を与えた。なお、同教諭もこの証言の前年に日の丸・君が代について賛否両論の授業を行ったため福山市教職
員組合や部落解放同盟などから「差別教育を行った」として激しい糾弾を受けている。
私たちが学生の時に縄文時代をやたら学ばされ、近現代史はほとんど学ばなかった。大学に行きビックリしたモノです。
今や福山市の国旗掲揚率は100%、正しいものは正しいと言える様にして頂いた先人のご苦労を私たちは理解しないといけないですね。
福山市に必要な人財88「教育現場にメス」
参議院予算委員会を受けて文部省(現文部科学省)は4月27日に広島県に職員を派遣し、福山市教育長などから事情聴取を行った。
この結果、道徳の時間が人権学習に置き換わるなど福山市の教育が文部省の指導要領を無視している実態が浮かび上がり、是正指導が行われた。
これに対し、小森龍邦や広島県教職員組合は抵抗の姿勢を示すが、1999年には同じ広島県東部の世羅高等学校で校長が教職員と文部省の通達との板挟みに
なって自殺したことが全国的な注目を集め、更に文部省の調査結果から広島県教育委員会では18人、福山市教育委員会では3名が処分されたことなどから、福
山市の教育は文部省の指導要領に沿った内容に改められていった。
私が考えるのは教育指導要領の問題を軽視した事です。
国旗国歌は国民の愛国心から当たり前だという価値観の議論は終わりが無いです。だからこそ、全てはコンプライアンスの観点で私は見ています。
何事もそうですが、その立場で何をするのか?が重要です。
福山市に必要な人財89「目を背ける教育機関」
福山市における卒業式の国旗・国歌の実施率は2000年(平成12年)度以降小中高ともに100%となったが、授業時数の大幅な不足はその後も続き、 2001年度にも授業の1単位時間を恒常的に短縮したり安易に授業カットを行ったとして、翌2002年に福山市教育委員会は文部科学省から直接の指導を受 けた(他の問題のあった自治体については県を通じての指導)
以後、福山市の公立小中学校の授業時数不足は是正されるようになったが、2007年の全国学力・学習状況調査において、広島県全体では全国平均を上回ったにもかかわらず、福山市は全国平均を下回るなど、学力が全国・県平均を下回る状況は2012年現在も続いている。
2010年の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)において福山市は「採点の信頼性を確保することが難しく、全市一斉で教職員に新たな業務を課してまで行う意義は見いだしにくい」として県内の自治体としては(抽出校を除き)唯一参加しなかった。
厳しい現実の数字に対して人は眼を背けてしまいます。
哲学(目的)を持つ事。必要な事だと思います。
やりたい事を人はやりがちです。
やらなければならない事を忘れて、やりたい事に大義を持つと全てを失う野が今回の例ですね。
福山市に必要な人財90 「福山市の発展」
福山市は順調な発展や周囲の村を吸収合併して市域を広げたことなどから、平野部が少なく開発の余地がない尾道市に替わって広島県東部の中心都市となっていった。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けた。
戦後の高度経済成長の波に乗り復興を遂げていき、中でも日本鋼管福山製鉄所の誘致により企業城下町として急激に開発が進んで人口が増加していった。
昭和後期になると高度経済成長時代の終焉や鉄鋼不況などにより人口は約37万人程度で頭打ちとなったが、この頃には製鉄所の町から県東部の中心地へと脱却していった。
そして、平成の大合併により市域は更に拡大し、ほぼ旧福山藩領であった地区になり人口は約45万人に達するが、近年の実質的な人口増加率は微増にとどまっている。