福山開祖は徳川家康の従弟にあたる水野勝成でしたが5代勝峯が2歳で病死し、その後阿部家が入り、158年間維新まで続いた。

第2断絶は明治維新の時。
福山藩は新政府に恭順しましたが、函館戦争など駆り出され財政破たん状態になった。

第3断絶は明治4年からの廃藩置県で福山県になり、明治政府によって深津県・小田県と改称され、明治8年岡山県に併合され、政治中心地としての地位を失い凋落した。

さらに明治9年広島県に編入され、福山は県東端の田舎町になり人口も減り、経も疲弊した。
廃藩置県の名残として、県と県庁所在地が違う都市がある。
例えば北海道は札幌、岩手県は盛岡、兵庫県は神戸市、香川県は高松市、沖縄県は那覇市
なぜか?これは復習的にランク分けされた。


戊辰戦争の時に新政府軍に参加した藩の名称はそのまま県名として残された。
そうではない藩は旧国名よりも格下の郡名が付けられる。
福山は水野勝成という江戸幕府に近い譜代の地名で在り、福山県となるがそれを気に食わない明治政府高官が深津県とし備後と備中を合わせた小田県となりその県庁所在地は笠岡となる。
その後、明治8年に岡山に編入されるも翌年の9年には広島県に編入される。
明確な理由は記されておりません。

こういった歴史的な状況が福山風土を断絶し、文化の蓄積が出来ず今の市民は負の歴史DNAが伝わっているのではないか?
だからこそ、私はこれから福山人の歴史を作る都市核を上げていく政策をしっかりと見つめ直していきたい。