1月26日から245日間の通常国会が9月27日終了しました。その間に、最も大きな議論となったのが、限定的な集団的自衛権の行使を容認することを含む平和安全法制です。マスメディアでも大きく取り上げられましたが、賛成・反対共に結論ありきの感情的な議論も多かったためか、分かり易い形で再度説明して欲しいという声が多数寄せられています。

 そこで今日は、日米関係に着目をしながら、平和安全法制(特に、集団的自衛権に関連する部分)について、考えてみたいと思います。
なお、昨年11月発行の「村井ひでき通信 第13号」では、限定的な集団的自衛権の行使について、安全保障環境の変化や現行法制の「抜け穴」を埋める必要性といった視点から検討を行っております。末尾に添付しておきますので、是非そちらもご覧ください。


安全保障政策の出発点~我が国の平和を守るための3つの選択肢~

 まず、安全保障の議論に際して、我々が確認しておかなければならないことがあります。それは、日本の安全保障を考える上で、好む好まざるに関わらず、我々は3つの選択肢から一つを選ばなければならないということです。
 ① 米国と協力しながら我が国の安全を守っていく
 ② 日本の安全保障は自国だけで確保していく
 ③ 非武装中立を貫く

 これまで60年間自衛隊という防衛力を適切に維持、運用し、これまで平和を維持してきた日本がこれから非武装中立ということは全く非現実的です。もちろん、自衛隊を中心に自分の国は自分で守るということは最も重要であり基本となりますが、すべてを自国のみで対応することも困難です。独力での防衛を念頭に自衛隊を強化しようとすれば、今の何倍もの防衛費が必要となるという試算もあります。
 結果として、①の米国と協力するという選択が②よりも大きな抑止力を確保でき、なおかつ、安上がりであるため、最も現実的な選択肢となります。


平和を守るために必要な現状認識~日米同盟の驚くべき片務性~

 日米同盟の中で我が国の平和を守るために、我々日本人が忘れてならないのは、日米安保条約が、驚く程日本に都合よく出来ているということです。
 つまり、日本が攻撃された時は、米国の若者が身を挺して守ってくれるが、米国が攻撃された場合は、その攻撃によって日本の存立基盤も脅かされるような事態であっても、日本は何もする必要がないという「約束」になっていることです。
 超大国として圧倒的な経済力・軍事力を有していた冷戦下の米国であれば、資本主義陣営の最前線に位置する日本を守るため、そうした状況も容認し続けられたかもしれません。しかしながら、状況は変化しています。冷戦が終結し、グローバル化の進展と共に米国の絶対的優位が揺らぎ、また我が国も成熟国家としての役割が期待される中、米国内の日米同盟に対する見方も変わり始めています。
 今回の法改正でこの「約束」を変えるわけではありませんが、こうした状況を踏まえ、アメリカが攻撃を受けた場合で、それが日本の存立基盤を脅かすようなケースについては、せめて日米間で防衛協力を可能しようというのが、今般の法改正の肝である限定的な集団的自衛権の行使容認の本質です。


米国の戦争に巻き込まれないか?~「見捨てられ論」VS「巻き込まれ論」~

 ここでもし、米国が攻撃を受けて米国人の若者達が苦境に陥っているとします。そして、同時にそれが日本の存立基盤も脅かす事態になっているとします。その場合、我が国が何もしなかったら、米国国内の世論はどうなるでしょうか。いざ本当に我が国に直接攻撃が及んだ際に、日本のことを命がけで守ってくれるでしょうか。米国の若者にも両親がいて、家族がいます。なぜ、日本のことを守らなければならないのかという主張が沸騰するのではないでしょうか。
 国際政治の世界では、同盟関係には、常に同盟相手国から「見捨てられる」恐怖と同盟相手国の紛争に「巻き込まれる」恐怖の二つの恐怖が存在すると言われています。今般の限定的な集団的自衛権の行使容認で、日本が米国の戦争に巻き込まれるリスクが高まったとの主張があります。確かに、スーパーパワーとしての米国が世界各地の問題に対応していた時代では、日本が「巻き込まれる」リスクを恐れる必要があったかもしれません。しかし、今の国際情勢を見れば、我々は、北朝鮮の不安定化や中国の軍事大国化に直面しながら、米国が日本を「見捨てる」リスクや、米国が日本の紛争に「巻き込まれる」リスクを感じていることについても真剣に考える必要があります。今般の法改正は、あくまで限定的に集団的自衛権の行使を認めることで、「巻き込まれる」リスクは最小化しつつ、「見捨てられる」リスクにも対応したと言えるのではないでしょうか。


憲法と平和安全法制の関係について

 今回の法改正が違憲であるとの意見が多くの学者から表明されています。そうした主張に謙虚であらねばならないと思いますが、個人的には、米国とともに共同対処することになるとはいえ、日本の存立が脅かされ、国民の幸福な幸せを守り抜く必要がある場合に必要最小限度の武力の行使を可能にするというものである以上、我が国自衛の措置に限定されており、自衛のための措置を認めた最高裁の過去の判決の論理から逸脱していないと考えます。
 なお、憲法違反と主張される学者の方の多くは、自衛隊の存在自体が憲法違反と指摘しています。「陸海空軍その他の戦力は保持しない」とされている現行憲法下で、現実的な対応の必要性から警察予備隊が生まれ、そしてそれが自衛隊へと変化を遂げてきました。しかしながら、憲法の文字通りの解釈と現実がずれてきてしまっているのだとすれば、真正面から憲法の在り方について議論を行うことも、そろそろ必要な時期に来ているのではないでしょうか。


終わりに

 歴史に学ぶ。太平洋戦争のような戦禍を二度と引き起こしてはいけない。何としても、平和で安全な日本を守り抜いていく。それは、村井ひできの信念です。
 しかし、残念ながら口で「平和」と唱えているだけでは、平和を保ちきれない現実があります。外交努力を積み重ねて、近隣諸国と友好関係・信頼関係の醸成に努めることは勿論ですが、安全保障環境の変化、憲法との整合性、同盟国との関係性など、多くの視点を踏まえながら、紛争のリスクを最小化するための現実的な方策を探っていかなくてはなりません。
 お陰様で、国会議員として仕事を始めさせて頂いて早3年近くが経ちました。ただし、今回の法整備ほど、分かり易い説明が求められていることはありません。通信やブログなどを通じ、自分なりの情報発信をさせて頂いているつもりではありますが、不十分な点・ご不明な点も多々あろうかと思います。そうした点はお気軽に事務所までご連絡ください。しっかりと対応をさせて頂きます。皆様の率直な声を是非お聞かせください。

(ご参考)「村井ひでき通信 第13号」【集団的自衛権を再度冷静に考える編】