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21世紀。効かなくなったもの。

21世紀。


GOOGLEやインターネットの登場によって

既存のビジネスモデルが一気に変化した。


その結果、

ネットモールを中心とする

ネット産業が台頭し、最終的に百貨店が閉店に追い込まれる

事態となった。


また、コンビニエンスストアの急激な

増加により、身近なものは

近くのコンビニで揃えるという

ライフスタイルになる。


百貨店は、80年代から日本においての

文化の発信地でもあった。

文化の発信、文化を消費し、共有する場所でもあった。


しかし、有名店がのきなみ閉店に

追い込まれるという衝撃的な事態となる。


百貨店の信用、ブランド力に勝るものはない

しかしながら、ネットで商品を購入する

という手軽でかつ、値段も安く購入することが

できる。


例え、離島であっても、

インターネットの登場により

CDや本も購入できる時代だ。


21世紀。この流れが加速し、

店頭で売るという文化がなくなると

どういうことが起きるか?

という事を意味するのか?


消費者も賢くなり

ちょっとやそっとで動かなくなってしまった。


大学時代によく前を通った

百貨店が閉まると聞いた。

それはさすがに、驚いた。



テナントがなくなると、

人の流れも変わるだろう。


人は、どこから来て

どこへ向かうか。


細分化する社会。

つかみにくい社会構造。

ちょっとやそっとではなかなか感動できない社会。


溝を埋める物は何か?

うるおいを与える物は何か?


物質なのか。それとも哲学や概念的な物なのだろうか。


細分化する現代社会。

それを紡ぐものは何なのか

それを今一度問い直す時期に来ているように

思えてならない。








己の存在証明。鉄のカーテンを突き破る覚悟。

現代社会に生きる侍は、

懐刀としての「辞表」という最終手段を

持ち、この、いよいよもっていきにくい

世の中を歯を食いしばって生きている。


しかし、


上司が嫌だからって

命を捨てるのはもったいない。


とある本の一文が衝撃的であった。

今、苦しめられるのは、過去に

逆の立場があったから。と。


一度、死んだ気になって

再度再生にかけるということも

最終手段には必要かもしれない。


しかし、

のらりくらりと、

かわして行くのも防衛本能として

必要だろう。


そういった意味では

龍馬先生は一流だったという人も

多い。


のらりくらり

遊びながら苦しい時も

ユーモアを持って生きている。

さすが!と思わされる。


最後は、天命さえも

味方につける強運さ。


あきれるぐらいの

能天気で、緊張感を

一気に緩める。


ただ、時として

真面目に世の中の流れを

常に読んでいた。

西洋に学び、勉強は常にしていただろう。


潮目というものを

読んでいたと思う。



21世紀。


みんな苦しい社会を生きている

更には、この

流れは急速化し、

飲み込もうとしているが、

鉄のカーテンを突き破る気持ちで


堅固に

堅固に


やっていかないといけない。


生きていかないといけない。


本当に、本当に難しい事だがが、

情勢を見ながら

マイペースで行こう。



re:もう一度前へ。



熊野という存在。

先日、某大学で

熊野の方がいらした講演会があった。


パネリストの先生方が熊野という大きな自然、目に見えない

畏敬の存在を

前にして、様々な切り口から

お話をされる貴重な機会だ。


熊野は一言では言い表せられない程

奥深く、

例え畏敬の念を持ってでも

なかなか立ち入りがたい存在だろう。


四国も有数の霊場として

存在するが、熊野という存在は

本当におおきな存在であるように思えてならない。


混沌、コスモポリタン、虫の住む世界。

神秘の世界。


そして、神秘的な景色に人は

一瞬にして俗世間を忘れてしまう。

不思議だ。


まさに無心。




高校時代、

バレーボール部に所属していた私。


スランプに悩んでいた時、

よく無心になれと言われた。


インターハイ予選。

準々決勝。

夏の暑い体育館にて、

粘りに粘って

フルセットにて、伝統高を追い込んだ。

体育館の、独特なまなぬるい空気と、殺気めいた

最前線での攻防。

声援が飛び、一瞬一瞬に賭ける。


とてつもないような長い時間に感じた。


歓喜の瞬間は次の瞬間来た。

ぐらっと体が揺れた。


そして、ホイッスルの笛の音がした。

そして、気がついたら

今まで、抱き合ったことも無いようなチームメイトと

肩を叩きあい褒めたたえている。


おまけに、眼頭が熱くなり、

気がつくと泣いていた。


今まで生きてきた中で

心底、嬉しくて泣いたのは

それ以外、なかったように思う。


その次の試合。

名門校でもない、高校に

あっけなく負けた。




しかし、

そこには確かに

我々一般の、一介の公立高生6人がいた。


実力がなくとも

たとえ、二番手、三番手でも

更には最初は補欠で全然イケてなくても

地道にコツコツやっていくということが

どれだけ、最後の最後で力になるか証明した出来事だった。


練習では、あれこれ戦略を練った。

ノートに反省点を詳細に書き

反復していた。

更には、授業中はノートの余白を

使いイメージトレーニングを行う。



大会では、とにかく無心になれと。

監督によく言われた。


人間というものは

どうしてもためらいという物が

ある。


スポーツでも同じことだ。


いける!と思った瞬間

ためらいがおこる。


フェイントをして失敗する。

相手に読まれる。


最終的に、ためらいが

もとで、全部が駄目になる。


無心の難しさを嫌という程

痛感したのだ。


無というのは、

本当に難しい。


あるようでない。

ないようである。



無という存在とシンクロシティするものとして、

元ある場所というものがあるように思う。

自然体という言葉とも言えるような気がする。


それは、生命の元あった場所。

根本のルーツな様な気さえする。

ストレスフリー。


静寂の中に

生命の躍動感や、うねりやら

とにかく、動いて、動いて

そして一瞬にしてスパークし、

光となりキラキラと昇っていく様な

そんなイメージをしたのだった。



時として、

厳しく


時として優しく語りかけてくる。



自然の前では、人は

赤子の手を捻られるように

何もできない。


熊野の祭りのポスターを見たのであるが、

体が熱くなるような

エネルギーをもらった。


自然を今一度

大切にしなければと思う。