2024年6月 コールサック社刊

 

 

 

 著者略歴にあるように、第20回太宰治賞を受賞して文壇デビューした新進気鋭の作家である。
 東日本大震災と原発事故による放射線被害を現地で体験したとき、高校生だったという。本書はその被災の体験が背景になっている。
 短編の「爆心地ランナー」と中編の「こんなやみよののはらのなかを」の二編が収録されている。


 震災後、純文学界ではさまざまな角度から長、短編小説、詩、短歌、俳句が創作され、文芸誌を賑わせた。多くは社会学的、哲学的な大問題として向き合い、それを独創的な視点を創出して、精密に描いた作品群だった。
 その記憶が薄れつつある現在、当時、まだ大人の社会での自己表現の発表の場を持っていない、高校生だった人物の視点で描かれている。
 かつての純文学の、やや難解な傾向とは無縁の、瑞々しい感覚で、文体もすんなり読める、ライトノベル的な軽快な(こういう感想を作者は好まないとおもうが)文体で、一種の疾走感を伴って描かれている。
 読者は、多重の根深い差別と喪失感を背景に、若い感性が受け止めたさまざまな葛藤の現場に立ち会わされる。
 被害時、こどもだった人たちが、このことを、このような文体で、このように描けるようになるには、十年の歳月を要したのだ。


 「爆心地ランナー」では、震災時に起きた「差別的な被害」を、重層的な背景として、姉そっくりの少女の姿に変装して、家族の記憶の追体験をしようとする弟の少年が主人公である。
 心的障害を持つ姉と家族が、震災後の避難生活の中で受ける差別的集団圧力と、それを庇って生きる親の孤立と絶望感、そして死。
 その過程と現地での体験が、詩的な文章で描かれていく。
 『爆心地ランナー』という架空の小説を、その架空の作者のエビードという形の入れ子構造の小説になっている。
 かつての大人たちの震災文学とは視点が全く違う。
 この視点は震災後の「震災後文学」に欠落していた。
 被害は概念で語ってはいけいない。
 もっとも大切な命の手触りが欠落するからだ。
 この小説では、思春期、青春期のヒリヒリするような社会との葛藤が、新鮮な筆致で描かれている。

 

「こんなやみよののはらのなかを」は、自己表現のことばを待っていなかった若者が、文学的な自己表現に至る精神史の物語だ。
 このタイトルは宮沢賢治の『青森挽歌』から引かれている。
 巻末にこの小説の「参考文献」が掲載されている。

 

 個人的な感想だが、どれもわたしの既読の書であり、その一つ一つから受けた印象を、登場人物が語るのだが、それもわたしの読後感と同じだった。
 主人公と副主人公の男女二人の絆ともなっている『ゲド戦記』のエピソードで、物語の冒頭と終章がサンドイッチにされている構成が巧みだ。

「爆心地ランナー」の、本書の帯にもなっている、
「そこがどこであれ君が走る場所が爆心地だ」
 ということばがキーワードになっている。
 俳人にとって見逃せないのは、タイトルページの下段に、有名な金子兜太の俳句、
  湾曲し火傷し爆心地のマラソン
が引かれている。
 兜太の句は長崎の原爆被害が背景になっているから「被爆」であり、「爆心地」である。
 福島の放射線被曝は、「被曝」であり、その「中心」を爆心地とはいわない。
 いや、言えないほど物理的、精神的被害の範囲が広大すぎるのだ。
 敢えてその語をこの物語のタイトルにしていることに、作者の深淵な意図を感受しないわけにはゆかない。

「爆心地ランナー」の、本書の帯にもなっている、
「そこがどこであれ君が走る場所が爆心地だ」
ということば。
「こんなやみよののはらのなかを」の副主人公の青年が言ったことば。
「震災はおれの一部なんだ」
「永遠回帰だ」
「一周回ったら時代の先端を走っている」
 そして小説の末尾の結びの地の文。
「同じ場所に居続けるためには、全速力で走らなければならないのだ。」
 文学が文学であるための、重要なことばだ。
 それは健忘症著しい戦後日本社会の傾向と本質への批判に留まらない。
 今を生きるために、過去を過去とせず、今あることの喫緊の課題として、それを生き抜くためには、「全速力で走らなければならないのだ」。

 

 わたくしごとだが、小学生時代を「チッソ・水俣事件」(これを公害とか「水俣病」とは決して呼ばないで欲しい! 利潤追求企業による大量無差別殺人および殺人未遂という文明禍事件である)の、ジェノサイドの現場(母方の漁師一族が壊滅な被害を蒙っている)を身近に見て育ったわたしには、その体験を過去ものにすることは、許されなかった。
 その記憶に何度も何度も呼び戻される体験をした。
 最初は石牟礼道子の『苦海浄土』が刊行されたとき。
 そして本章が扱っている原発事故による放射線被曝被害が起きたとき。
 その他、戦争、自然災害、産業物による人身被害が起きるたびに、わたしをわたしの原点に連れ戻した。
 その文学的自己表出を果たすために、人生のほとんどを費やすことになった。
 過去を過去にしないとは、そういうことだ。
 自分が今を生きる喫緊の課題として、それらの現代的な難題を引き受けるということだ。


 志賀泉は「震災」を自分の一部として引き受けて、ひりひりするような豊かな感性で、今を生き、これからも疾走してゆくに違いない。

 

 

 

以上のコピーでは読みにくいと思いますので、その中から特に重要な箇所を以下に抜粋して紹介します。

 

      ※

 

免田串件資料保存委員会 高峰 武「『人間の復活』をかけた闘い」
 

「社会に帰った私、当時のかかわりに感想を求めますと、「俺達は仕事でやった」

「今更非難するな」「ご苦労さん」福崎、野田、木下の順です。…(略)・:本当に人

の世はおろかなものです」

 原文のまま紹介しましたが、ここに出てくる「禍崎」は、免田事件を捜査した熊本県の人吉警察署の福崎良夫主任刑事、「野田」は免田さんを殺人罪などで起訴した熊本地検八代支部の野田英男検事、「木下」は死刑判決を言い渡した熊本地裁八代支部の木下春雄裁判長です。免田さんは無罪判決の後、刑事、検事、裁判長にそれぞれ直接、誤ったその責任と「なぜ私を?」を正していました。この手紙に出てくるのがその3人の答えだったのです。手紙で免田さんは「人の世はおろかなものです」と沓いていますが、私たちこそ、なぜこんなことになったのかを考えねばなりません。

 

 

 ここではやはり、自白を「証拠の王」とする捜在側の根深い考えがあります。法律が変わっても捜査の側は変わっていませんでした。自分たちが白白させておいて、その自白を前提に証拠を集めていく、こんな流れができていました。検察官も裁判官もこの「つくられた自白」にもとづいて判断をしたのです。冤罪事件に共通するのは、この「つくられた自白」が証拠の柱になっていることです。じつは、免田さんの無実を証明する証拠は捜査段階でもあったのですが、それが第一審段階で口の目を見ることはありません

でした。当時の捜査について、後に事件を検証した最高検察庁は「泥縄式捜査」と痛烈に批判しています。

 

 

 

免田事件資料保存委貝会牧口敏孝「読書は生き抜く力を与える」

 

 免田さんが獄中で読んだ本は2000冊です。その内の1000冊が免田栄文庫に残されています。これまでに600冊について目録を作りました。いま言えることは、死刑囚としていつ執行されるのかわからない死の恐怖に毎日怯えながらも、34年間を生き抜くことができたのは、多くの本を読むことによって、免田さん自身の精神力が強靭なものに変化していったからではないのかということです。

 

 

潮谷氏へ送った手紙の中で、免田さんは次のように述べています。

 「毎日6時半に起き点訳、11時まで続け、その間9時より10時まで運動が行われます。11時以後は書物や本を銃みます。日本人の起源、生命の起源、日本記の起源、キリスト教の起源、この頃は、私の部屋は起源ブームです。本を読むことでいろいろなことが教えられ、この点この生活では恵まれていると言ってよいでしょう。」

 免田さんの梢神面が知的好奇心の塊になっていることがわかります。免田さんは、説んだ本の中に赤鉛筆で次の言葉に印をつけていました。

 「無知は恐怖を生み、知識は確信を与える」(『人間の歴史 先史・古代篇』)。免田さんは読書によって、最終的になにを知ろうとしたのでしょうか。潮谷氏への手紙に次のように記しています。

 「真実は通さねば真の人権と民主主義は守られません。私は自分の一生を、あれはかたよった人閻だとは言われたくありません。人間とはなにか、それが知りたいのです」。

 

 

免田事件資料保存委員会 甲斐壮一「獄中の心情を知る手紙の数々」

 

  獄中での画期となる出来事は、第3次再審請求で出た再審開始決定(西辻決定)。しかし、検察の即時抗告によって上級審で「法の安定を欠く」として取り消され、「幻の決定」となってしまいます。

 「現在のままでは私もしにきれません(中略)いかなる事がありましょうとも 最後まで神様を信じて 無実が晴れるHを信じて居ります」

 一度開いた再審の門を再び閉ざされた無念さを、免田さんは潮谷氏にこう綴っていました(1959年5月1口消印)。免田さんの父栄策さんは再審開始も再審無罪の報も聞くことなく、1971年4月、74歳で亡くなりました。

 「父の死去は本当に悲痛な問題でした。よるべなき迷子子羊となってしまい 死刑の判決より痛いだげきを受けました(中略)でも私は決してまけません 相手が強ければ強いほど勇気をもやしてむかってゆきます。私にはそれだけの理山と信念があります」(同年5月25日消印)。

 手紙を解読しながら、行問から免田さんの息遣いが聞こえてくるように思えました。無実の罪を晴らし、生きて家族や支援者の元へ帰るという、その信念、執念が浮かび上がってきます。

 

           ※

 

 この抜粋文だけでも、警察、検事、裁判官という、公権力の座にあるものたちの、心の中にある差別的で、自己を顧みるという謙虚さを欠いた、傲岸不遜がうかがえます。

 とくに私が憤りを感じるのは、無罪の証拠があるのに、「検察の即時抗告によって上級審で「法の安定を欠く」として取り消されたというくだりです。

 彼らのそのような誤ったプライドと狭いテリトリー意識のようなもののせいで、免田さんは永い獄中生活を強いられたのです。

 これは他人事ではない。

 この国に住むわたしたちに、いつふりかかるかもしれない、恐ろしい冤罪の内実なのです。

 

 

 

            

 

高峰武著《岩波新書『水俣病』(著)を再読する『見えていたもの、見えていなかったもの』》を巡って

 

 

  冤罪事件についての共同図書で、日本記者クラブ賞を受賞している有名な、原田正純氏よる、《岩波新書『水俣病』(著)を再読する『見えていたもの、見えていなかったもの』》という、「水俣学研究」の第12・13合併号に連載されていた評論を、一つに抜刷した小冊子が出版された。

 高峰氏は新聞記者時代、「水俣病」問題も深く取材し続けてきた人である。

 

  わたしも原田正純氏の『水俣病』は上梓された1972年に読んでいる。

 母方の実家の家族に「水俣病」で亡くなった被害者をもつわたしは、そのとき、一番強く印象に残っていたのは、次のくだりだった。

          ※            ※

研究会のテーマの一つは、裁判の最大の焦点であるチッソの過失責任をどう立証するか、であった。

 水俣病の発生は全く予想できなかった。その時々で可能な限りの対策をとってきた―予想されるチッソの主張をどう論破するか。当時、東京の関係者か非公式に“その道の権威”に聞くと、「立証の難しい裁判になる。早く和解した方がいいのでは」などという声が聞こえてくるほどであった。しかし、それは患者の意思ではなかった。この時、研究会が参考にしたのが武谷三男の『安全性の考え方』であった。ここで展開されていたのが核爆発実験の放射能をめぐる議論である。アメリカ原子力委員のノーベル賞学者が許容量をたてにとり、「原水爆の降灰放射能は天然の放射能に比べると少ないから、その影響は無視できる」としたのに対して、武谷らは「害が証明されないというが、降灰放射能の害が証明されるのは人類が滅びるときであり、人体実験の思想にほかならない。放射能か無害であることが証明できない限り、核実験は行うべきではない」としたのである。この考え方を、原水爆実験のみならず、工場廃棄物にもあてはめて考えると、無害であるという確証がない限り放出は許されない、という立場での理論構成となる。中心になったのは熊本大学法文学部の富樫貞夫らであったが、本書を再読しながら、この考え方は実は今も生きている、もっと言えば生かされねばならないと思った。

          ※            ※

 「研究会」とは、被害者団体を支援する、多種多様の専門家たちが立ち上げた「水俣病」そのものの多面的な研究と、各種の支援活動、そして裁判闘争に向けての戦術的な研究会である。

 わたしが鮮烈に覚えているのは、下線を引いたくだりである。

 加害の因果関係の証明をしろと、無罪を主張するチッソ。

 因果関係の直接的な証明など、困難で不可能に近い。

 チッソのそんな言い分を裁判で論破する方法について、原田氏たちは悩んだのである。

 そして武谷三男の『安全性の考え方』の考え方を導入して、

  無害であるという確証がない限り放出は許されない

と、社会法としても「常識」とすべく困難な裁判闘争に立ち向かったのである。

このくだりを読んだ、二十歳そこそこだったわたしは、逆に、そんなことすら常識ではなく、チッソは言い逃れを続けた会社だったのだ、という失望感と怒りをもって受け止めたことを、鮮明に覚えている。

 このことを初めて知る読者も、今では常識としかいえない、そんなことが、裁判に争われなければならなかったのか、と驚かれるだろう。

 今の常識は、この国の日本史では非常識だったのだ。

 

 高峰氏の論述はこの後、福島原発の核汚染水の海への放出の問題にも、原田氏が心を痛めていたことに触れている。

 これも今、「安全なレベルに希釈したものだから無害」だという主張が「常識」として流布されようとしている。多分に政治的な駆け引き臭い中国の過剰な反応が、批判的に語られるが常識のような風潮だ。そのことの根本に横たわる問題を批判的に語るが困難な状態になっていないか。

 「水俣病」の被害はチッソが安全といい降らす工場排水の希釈された海水の中で生きていた魚たちの体内に取り込まれ、その食物連鎖によって「濃縮され有害」となったという現象によって起こった加害なのだ。

 海へ希釈放出したものは、生物が循環的に摂取濃縮し有害となるという、「水俣」の教訓はすっかり忘れられている。

 薄めれば安全というのは企業側の妄想的なキャンペーンに過ぎない。

 それを国がかりで「正論化」しようといているだけだ。

 高峰氏は原田氏のことばを引いて、次のように述べている。

          ※            ※

 2011年の東日本大震災による東京電力福島第一発電所の処理水問題で、基準値以下の微量でしかもさらに薄めて放出、というやり方を日本政府はとっていると説明するが、水俣で起きたのは、拡散・希釈ではなく、反対の食物連鎖による濃縮だった

原田は福島第一原発事故の翌年に急性骨髄性白血病のため77歳で亡くなるのだが、生前の原田が強く心配していたのがこの福島の汚染水問題であった。

 もう一つ。裁判の隠れたテーマがチッソという会社が持っていた体質の問題であった。

 チッソ水俣工場は労働災害が多発していたのである。「内に労働災害、外に水俣病」である。裁判ではチッソ労働者が工場内の危険な実情を証言した。原田は書いている。「水俣病は、水俣において起こるべくして起こった」のだと。

           ※            ※

 わたしの父はそのチッソ工場の工員で、労組の組合員だった。

 我家は「水俣病」の被害者の家系と、加害会社の工員という、問題がクロスする現場だった。父の職場仲間の数人が劣悪な労働環境で大怪我をし、頻繁にあった爆発事故で亡くなっている。

 母は「水俣病」で親族を失くして心に傷を負い、父は職場の労災問題などで仲間を喪い、心に傷を負った。

 その子どもであるわたしたち兄弟姉妹は、その両方の心的外傷を負い、この国を心から愛せない大人になってしまった。

 生き残っている親族は今、わたし独りである。

 高度成長の戦後日本の好景気に浮かれる社会に、何が「ジャパン アズ ナンバーワン」だ、と内心毒づき続けて大人になった。

 その陰で何人殺せば気が済むのだ、この国は!

 

 今の日本は「水俣化」した社会であり、それが改善されてきているとは、決して思わない。

 

 

 九螺ささら氏がまた絵本を福音館書店から出版した。2024年5月1日付け。

  

 

 

編集部による紹介文

 

 

Amazonでの紹介文

 

カンガルーのステッドは、丘の上の小さなホテルで働いています。ホテルの仕事は、毎日がハプニングの連続。今日も、屋上で干していたシーツが風に飛ばされそうになったり、夕食の時間に停電になってしまったり……。次々と起こるトラブルをステッドが華麗に解決していきます。なんでもこなせるステッドの仕事ぶりを軽快に描きます。

 

おまけ ステップのホテルの全図と見取り図

 

 

 何度アップロードしてもさかさまになります。あしからず。

 

作者のことば

 

 九螺ささら氏は新進気鋭の歌人であり、その将来が嘱望されている。

 絵本の「文」の方の作者としても、その多才な才能が発揮されている。

 俳句か短歌などの韻文に長けた人が書く物語は、どこかホンモノになりきれない破綻があるのだが、絵本のス―トーリーテイラーとしての、九螺氏の「ものがたり」作りは実に自然で、面白かったり、深淵のメタファーに込めた深い思想性があったり、多様で破綻がない。

 そういえば、彼女の短歌にはその背後に深い物語性があった。

 是非、大人の小説、エンタメ系でも純文学どちらでもいいですから、創作して読ませて欲しい。

 

九螺ささら氏のブログのアドレス

 

福音館書店☆こどものとも5月号☆「ステッドのホテル」の予約受付が始まりました☆☆☆☆☆ | 九螺ささら(くら ささら)☺️ (ameblo.jp) https://ameblo.jp/justaminutekamisama/entry-12844359106.html?frm_src=favoritemail

 

 

「丘の上のしましま」

 

 福音館の月刊童話シリーズに,精力的にいろいろなタイプの新作童話を発表している、新鋭の歌人、九螺ささらが、今度は読み聞かせ童話を、「母の友」という、子育て期の母親だ対象に雑誌に、寄稿している。

 

 

 今回は、ある種の「逃亡・冒険」ものがたりである。

 収穫を待つばかりの丘の上の西瓜畑から話は始まる。

 収穫されて、トラックに積まれ、「ここではない」どこかへの旅立ちに、憧れる仲間のなかで、「しましま」くんという西瓜だけは、何故かその収穫の手から逃れようとするのだ。

 でも、自力では畑から脱出できない。

 ここで話は、無償の「他者」の手の支援を頼むのである。

 蔓を齧って、「しましま」くんを自由にしてあげるのは、通りががりのネズミくんである。

 そして複数の「他者」の力で「しましま」くんは、無事に海岸にまでたどり着く。

 丘の上から見えていた、なんだか「キラキラ」光っている、この場所に憧れていたのである。

 

 

 ネタバレになるので、本当は結末の紹介はまずいのだが、なんと、「しましま」くんは最後は、ある職業の人間になるのだ。

 

 

 何になるのか?

 上の絵のヒントと、ことばのヒントを差し上げよう。

 

 西瓜は丸い。

 割ると赤い実に、黒い種が、まるで〇〇が○○に開いたように見える。

 その色を違う色にすると何かに見えて来ないだろうか。

 後は読者が推理してほしい。

 この童話を読みたかったら、注文して買って、小さい子に読み聞かせてくだい。

 

 きっと、喜びます。

 

  

 免田事件資料保存委員会から、高峰武さん、甲斐壮一さん、牧口敏孝さんが登壇し、印象に残る取材や報道にかける思いなどを語った。

 

zoomで公開されたが、この様子は現在、YouTubeの下記のアドレスですべてを視聴できる。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=r6Ph344WtL4

 

最初は高峰武氏が全般にわたる紹介を含めた講演を行った。

 

高峰氏は現役の記者時代には「水俣病」の報道に関わり、関連著書もある。

氏の「冤罪事件も公害問題も、人間に優劣をつける差別意識から生まれるものだ」という意味の言葉は深く印象に残った。

 

甲斐壮一氏は無罪判決に至るまでの免田氏の苦闘の軌跡を、親族や裁判に関わる人たちなどの手紙などを紹介して、その不屈の闘いのようすを紹介した。

牧口敏孝氏は特に、免田氏の獄中の1000冊にも及ぶ読書歴を調査し、免田氏の思想の深まりの軌跡を紹介した。

最初は無知であった反省から法律関係の読書からはじまり、法とは何かということに留まらず、人間とは何かという根源的な問いに突き当たり、多様な書物を読み、思索を深めていった軌跡を紹介した。

 

 

 冤罪の根源に天皇制、とくに日本の深層心理に巣食っている拝命思想があることを洞察するに至ったとする言葉が、深く印象に残った。

 

 この三人の方よる膨大な免田資料の整理は続いており、大部の『検証 免田事件』に収録されなかった資料の整理と公開を継続されるという。

 

 

 

 

 

   免田事件資料保存委員会 

      高峰武さん、甲斐壮一さん、牧口敏孝さん

 

        2023年06月30日 17:00 〜 19:00 10階ホール

 

       ウェブ参加:2023年06月30日15:00
     会場参加: 2023年06月30日15:00

 

 以下はその関連記事

 

 

  記者会見に参加したい方は「日本記者クラブ」のWebサイトで、以下の手順で申し込むことができる。

 

 

くらささら作 くりはらたかし絵 『ジッタとゼンスケ ふたりたび』

                   福音館書店2023年7月刊 

 

 

 また福音館書店のこのシリーズで、新進の歌人の九螺ささら氏作の絵本が発売された。

お話の発端は次の絵のとおりである。

 

 主人公のキツネのジッタとゼンスケの二人が、大仏を拝みに旅に出たが、その途中、「きんぎつねの おとのさま」に、荷車に積んだ大きな氷を届けようとしている、猿の夫婦と出会い、子供が熱を出して、氷を運べなくなったので、どなたかお城まで運んでくれないかと、相談され、二人はそれを引き受けてしまう、というのが、この絵本のおはなしの発端である。

 

 二人の旅の目的は、大仏を拝みに行くことなのだが、この最初の頼み事を引き受けることから始まり、旅の途中で、いろんな困りごとを抱えているものたちに出会い、それらにかかわって、解決してやるというのが前半のおfはなしである。

 後半は氷を運び続ける二人が、こんどはさまざまな困難に出会ってしまう展開となる。

 その困難を、こんどは二人に助けられたものたちの支援で乗り切ってゆくというおはなしになって進んでゆき、最後は無事に、小さくなった氷を、「きんぎつねのおとのさま」に届ける、という結末を迎える。

 絵本のつくりは、おはなしがここで終わったような印象を与える作りになっている。最終べージの右は本の奥付のページになっている。

 読者は、もともとの、二人の旅の目的の、大仏拝みの方はどうなったんだ、と思ってしまう。

 絵本を閉じると裏表紙が次の絵になっている。

 最後はちゃんと、大仏拝みの旅は完結しているようなのだ。

 

 読後感は、ただの「よかったね」で終わらない。

 じんわり、いろんなことを考えさせる読後感になっている。

 

 わたしたちは、自分の人生で、自分ごとを優先してばかりいないだろうか。

 そして他人ごとには目をつぶって、やり過ごすような生き方をしていないだろうか。

 

 この絵本は、他人ごとに振り回されてばかりいるように見えて、実はワクワク、ドキドキの時間、人と助け合うことの素直な歓びという、貴重な体験をして、ふたりの旅が充実したものになっていることに気付かされる。

 

 自分ごとだけにかまけて忙しそうに生きている現代人の、心がどこかスカスカで空疎に感じられるのは、このような命の直接的な触れ合いの「道草体験」が失われているからではないだろうか。

 

このような、一見、自分にとっては無関係な「迷惑ごと」を避けず、一つひとつ丁寧に向き合って生きることの中に、人生に彩りと充実性を与えるものがあるのだ、ということを考えさせられる読後感の絵本である。

 

不合理が命を輝かせるのだ。

合理的で目的主義一直線の現代文明は、限りなく空疎化に向かうに違いない。

 

新聞スクラップ

 

丸木夫妻の「水俣」、再び世に 母子像の絵、修復経て考証館に展示

朝日新聞 2023年5月1日朝刊

 

 「原爆の図」で知られる画家の丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻が水俣病を描いた絵が、熊本県水俣市にある。広く人の目に触れることなく、一時は行き場も失ったが、修復を終えて再び公開されている。水俣病は1日、公式確認から67年となる。

 作品の名は「水俣母子像」。ユージン・スミスさんの写真で有名な、胎児性患者の上村智子さんが母親に抱きかかえられて入浴している姿をイメージしたものとされる墨絵だ。縦1・05メートル、横4・3メートルの横長の布に描かれたのは、ある舞台を飾るためだった。

 丸木夫妻は1978年、「原爆の図」の巡回展でフランスを訪れた際、来場者に「水俣の話をしてほしい」と言われたが、うまく答えられなかった。79年に水俣に行き、患者たちに会って衝撃を受ける。「一瞬で命を失った原爆も、長い間廃水が流された水俣も、人民がなぶり者にされたという点では同じ」と俊さんは後に語っている。

 夫妻は80年3月、縦2・7メートル、横14・9メートルの大作「水俣の図」を公開する。石牟礼道子さんの小説「苦海浄土」に着想を得て、苦悶(くもん)の表情を浮かべる284人の姿を描いて大きな反響を呼んだ。だが、俊さんは「苦海浄土の苦海ばかりを描いてしまった」と話していた。

 その年の5月、一人芝居で全国を行脚して水俣病を告発し続けた俳優砂田明さんが丸木美術館(埼玉県)で「海よ母よ子どもらよ」を上演した際に夫妻が描いたのが「母子像」だった。

 上演後、鹿児島県境近くの丘にある集会所「みんなの家」に飾られた。水俣病で犠牲になった人間やすべての生きものをまつるために砂田さんが建立した「乙女塚」の近くにあった集会所だ。

 だが集会所は傷みが進み2019年に解体。「母子像」は患者の支援拠点、水俣病センター相思社の「水俣病歴史考証館」に引き継がれた。水俣病1次訴訟で73年に勝訴した患者らが設立し、「苦海浄土」の直筆原稿など、水俣病関係の貴重な資料を約22万点所蔵する施設だ。

 舞台を飾ることが目的だった絵は、長期の保存には適していない布に描かれていた。丸木美術館学芸員の岡村幸宣さん(48)は、保存や展示の方法について相思社から相談を受けた際、劣化してもバラバラにならないよう和紙で裏打ちするなどした上で、積極的に展示することを勧めた。「丸木夫妻は、目に見える形でしっかり使ってほしいとの願いを砂田さんに託したと思われます」

 処置を施した「母子像」は、22年秋から水俣病歴史考証館で展示されている。湿気が高くなる5月中下旬にはいったん収蔵庫に納めるという。

 砂田さんの妻エミ子さん(96)は、今も乙女塚を守り続ける。5月1日に毎年、患者たちの主催で慰霊式が営まれている。塚には、母子像のイメージとされ、21歳で亡くなった智子さんの遺品も納められている。エミ子さんは「たくさんの人に、この大切な絵もみてほしい」と話す。同館は土曜休館。問い合わせは相 思社(0966・63・5800)。(今村建二)

 

水俣病67年、慰霊式に620人

朝日新聞2023年5月2日朝刊

 

 「公害の原点」とされる水俣病が公式に確認されてから1日で67年を迎え、熊本県水俣市で犠牲者慰霊式が営まれた。コロナ禍で中止や規模縮小が続いたが2019年以来の通常開催となった。

 今年は患者や遺族、西村明宏環境相、蒲島郁夫知事、チッソの木庭竜一社長ら約620人が参列。会場が久々に出席者で埋まった。

 これまで3万2901人が水俣病の患者認定を申請してきたが、4月30日現在で認定されたのは2284人。うち2038人が亡くなった。いまだ被害の全容が明らかになっておらず、患者団体は幅広い救済のための調査実施を求めている。

 この日、西村環境相は調査実施は明言しなかった。調査の前提となる「調査手法の開発」についての専門家による研究班を「できれば夏ごろまでには立ち上げたい」と述べるにとどめた。

 水俣病は、化学メーカー・チッソが流した、メチル水銀を含んだ廃水が原因で引き起こされ、1956年5月1日に保健所に患者の発生が届けられた。92年に市主催で始まった慰霊式は主にこの日に営まれてきた。(今村建二)

 

 

 

 

 

 

 

 

                    中村節也編曲『宮澤賢治歌曲全集』

 

 中村節也氏のライフワークである宮澤賢治研究の成果の一つである、宮澤賢治の全歌曲の、中村節也氏の全編曲による歌曲集が上梓された。

 

 

 

 

 児童歌唱であったり、曲だけの演奏で聴いたことがある賢治の歌曲が、ピアノ伴奏によるテノール歌唱で、全歌曲が収録されている。

 まるでクラシックのシューベルト歌曲集を聴いているような、格調の高い歌曲集になっている。

 かつ、賢治のイーハトーヴ ワールドに包み込まれるような気持ちさせてくれるCDである。

 私宛のメールで述べられていた、中村節也氏のことばを以下に転記させていただく。

 

       ※               ※

 

 戦時中に求めた「宮沢賢治名作選」の一冊が、空襲の際リュックの非常持ち出しとなって以来、80年近く賢治が私の愛読書となり、師父ともなりました。

 94歳になってレコーディングの話が決まり、一年後ようやく完成。

 福井さんの歌唱はいうまでもなく、谷池さんのピアノがすばらしい表現でした。

 ことに「弓のごとく」のコーダの鶯、うずら、かっこうなどは、原曲のオーケストラを彷彿させます。 

 

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 中村節也氏には『宮沢賢治の宇宙音感―音楽と星と法華経ー』という渾身の名著があり、別ブログで紹介させていただいた。そちらも参照していただくと、中村氏の研究の視野の広さと深度が理解いただけるはずである。

 

 

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 丁度今年(2023年 令和5年)の3月から来年の3月まで、日本現代詩歌文学館で、「宮沢賢治に捧げる詩歌」展が開催されている。それにこの中村氏の仕事が紹介展示される。

 

 

 

 CDを購入し、またこの展覧会に足を運び、積年の、中村節也氏の業績に触れていただきたい。