高峰武著《岩波新書『水俣病』(著)を再読する『見えていたもの、見えていなかったもの』》を巡って

 

 

  冤罪事件についての共同図書で、日本記者クラブ賞を受賞している有名な、原田正純氏よる、《岩波新書『水俣病』(著)を再読する『見えていたもの、見えていなかったもの』》という、「水俣学研究」の第12・13合併号に連載されていた評論を、一つに抜刷した小冊子が出版された。

 高峰氏は新聞記者時代、「水俣病」問題も深く取材し続けてきた人である。

 

  わたしも原田正純氏の『水俣病』は上梓された1972年に読んでいる。

 母方の実家の家族に「水俣病」で亡くなった被害者をもつわたしは、そのとき、一番強く印象に残っていたのは、次のくだりだった。

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研究会のテーマの一つは、裁判の最大の焦点であるチッソの過失責任をどう立証するか、であった。

 水俣病の発生は全く予想できなかった。その時々で可能な限りの対策をとってきた―予想されるチッソの主張をどう論破するか。当時、東京の関係者か非公式に“その道の権威”に聞くと、「立証の難しい裁判になる。早く和解した方がいいのでは」などという声が聞こえてくるほどであった。しかし、それは患者の意思ではなかった。この時、研究会が参考にしたのが武谷三男の『安全性の考え方』であった。ここで展開されていたのが核爆発実験の放射能をめぐる議論である。アメリカ原子力委員のノーベル賞学者が許容量をたてにとり、「原水爆の降灰放射能は天然の放射能に比べると少ないから、その影響は無視できる」としたのに対して、武谷らは「害が証明されないというが、降灰放射能の害が証明されるのは人類が滅びるときであり、人体実験の思想にほかならない。放射能か無害であることが証明できない限り、核実験は行うべきではない」としたのである。この考え方を、原水爆実験のみならず、工場廃棄物にもあてはめて考えると、無害であるという確証がない限り放出は許されない、という立場での理論構成となる。中心になったのは熊本大学法文学部の富樫貞夫らであったが、本書を再読しながら、この考え方は実は今も生きている、もっと言えば生かされねばならないと思った。

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 「研究会」とは、被害者団体を支援する、多種多様の専門家たちが立ち上げた「水俣病」そのものの多面的な研究と、各種の支援活動、そして裁判闘争に向けての戦術的な研究会である。

 わたしが鮮烈に覚えているのは、下線を引いたくだりである。

 加害の因果関係の証明をしろと、無罪を主張するチッソ。

 因果関係の直接的な証明など、困難で不可能に近い。

 チッソのそんな言い分を裁判で論破する方法について、原田氏たちは悩んだのである。

 そして武谷三男の『安全性の考え方』の考え方を導入して、

  無害であるという確証がない限り放出は許されない

と、社会法としても「常識」とすべく困難な裁判闘争に立ち向かったのである。

このくだりを読んだ、二十歳そこそこだったわたしは、逆に、そんなことすら常識ではなく、チッソは言い逃れを続けた会社だったのだ、という失望感と怒りをもって受け止めたことを、鮮明に覚えている。

 このことを初めて知る読者も、今では常識としかいえない、そんなことが、裁判に争われなければならなかったのか、と驚かれるだろう。

 今の常識は、この国の日本史では非常識だったのだ。

 

 高峰氏の論述はこの後、福島原発の核汚染水の海への放出の問題にも、原田氏が心を痛めていたことに触れている。

 これも今、「安全なレベルに希釈したものだから無害」だという主張が「常識」として流布されようとしている。多分に政治的な駆け引き臭い中国の過剰な反応が、批判的に語られるが常識のような風潮だ。そのことの根本に横たわる問題を批判的に語るが困難な状態になっていないか。

 「水俣病」の被害はチッソが安全といい降らす工場排水の希釈された海水の中で生きていた魚たちの体内に取り込まれ、その食物連鎖によって「濃縮され有害」となったという現象によって起こった加害なのだ。

 海へ希釈放出したものは、生物が循環的に摂取濃縮し有害となるという、「水俣」の教訓はすっかり忘れられている。

 薄めれば安全というのは企業側の妄想的なキャンペーンに過ぎない。

 それを国がかりで「正論化」しようといているだけだ。

 高峰氏は原田氏のことばを引いて、次のように述べている。

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 2011年の東日本大震災による東京電力福島第一発電所の処理水問題で、基準値以下の微量でしかもさらに薄めて放出、というやり方を日本政府はとっていると説明するが、水俣で起きたのは、拡散・希釈ではなく、反対の食物連鎖による濃縮だった

原田は福島第一原発事故の翌年に急性骨髄性白血病のため77歳で亡くなるのだが、生前の原田が強く心配していたのがこの福島の汚染水問題であった。

 もう一つ。裁判の隠れたテーマがチッソという会社が持っていた体質の問題であった。

 チッソ水俣工場は労働災害が多発していたのである。「内に労働災害、外に水俣病」である。裁判ではチッソ労働者が工場内の危険な実情を証言した。原田は書いている。「水俣病は、水俣において起こるべくして起こった」のだと。

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 わたしの父はそのチッソ工場の工員で、労組の組合員だった。

 我家は「水俣病」の被害者の家系と、加害会社の工員という、問題がクロスする現場だった。父の職場仲間の数人が劣悪な労働環境で大怪我をし、頻繁にあった爆発事故で亡くなっている。

 母は「水俣病」で親族を失くして心に傷を負い、父は職場の労災問題などで仲間を喪い、心に傷を負った。

 その子どもであるわたしたち兄弟姉妹は、その両方の心的外傷を負い、この国を心から愛せない大人になってしまった。

 生き残っている親族は今、わたし独りである。

 高度成長の戦後日本の好景気に浮かれる社会に、何が「ジャパン アズ ナンバーワン」だ、と内心毒づき続けて大人になった。

 その陰で何人殺せば気が済むのだ、この国は!

 

 今の日本は「水俣化」した社会であり、それが改善されてきているとは、決して思わない。