講師と生徒が全く会わないサテライトの塾があり、対面指導の塾がある。 教材を離せない塾もあれば教科書至上主義の塾もある。学校でも塾でも家庭教師でも「教育とは何か」と問われれば、進学という目標に真剣に取り組む子供たちと、苦労も喜びも悔しさも、ときには怒りさえ分け合うことではないかなあ。

 

 うちの生徒が国立の医学部に合格したとき、職員室でそれを確認した教師が

「ウオー!」と声を上げ驚いた。あからさまに「信じられない」という顔を周りに座っている同僚教師に見せた。直後にレインボーに報告に来たその生徒は「非常に悔しかった。」と自動ドアのところで棒立ちのまま監督に悔し泣きしながら話してくれた。感動を分かち合える関係が教育の一つの流れとするならば、この教師はその流れに生徒ともに挑んでこなかったことを、最後の貴重な一瞬で露呈したのかもしれない。

 

 年末の年末の三者面談で絶対ダメと言われ、それでも「行きたい」と「最悪の場合、中卒になっても仕方がない」と覚悟を決めて臨んだ中3女子がいた。幸い合格することができて満面の笑顔でレインボーに報告にきたが、「よく耐えた、よくついてきた。一回も弱音も言い訳もせずつらかったろうに」と言った瞬間、泣きくずれて監督の肩のあたりがその生徒の涙でべしょべしょになったことがあった。監督はほっとしたけれど実は辛かった。たった3か月だったけれど尋常でない苦労をさせたから。その生徒とともに苦しみを分け合うというより、むしろその生徒一人の肩にかぶせ続けたような思いが強かったから。この生徒はその後も通塾を続けて大学進学を果たした。覚悟を決めたあの日から、監督と一貫した信頼関係が続いていた。この春大学を卒業した。

 

 生徒の中には、教師との対話や質問は不要と考えたり、サテライトのように、東京から衛星で配信される自分の講義の出演料だけもらっていれば、顔を合わせることも無く必死で聞いている何万人もの地方の生徒達とは面識のないままでいいと考える講師もいるだろう。 そもそも学校でさえ、教師と生徒がどうかかわっているのか、その日常の関係があまりにも無色のような気がすることが増えた。コロナで余計に拍車がかかるかもしれないな・・・

 

「先生」とよばれる存在が、生徒とともに「進学」や「お勉強」という本来の大切な目標を通じて、その「うれし涙」や「悔し涙」を分かち合えるとき「生徒」は紛れもなくいい先生を信じて未来に導かれていくことだろう。 そして夢をつかむ!単なる希望校への進学だけでなくそばに大人がしっかり「ついていてやることがその子供のその先の未来の扉を開くかもしれない。

 

それができる大人(「先生」)は学校にいる。

 

レインボーランゲージハウス 監督

 

 

 

流した涙が報われる日を信じて・・・