監督の最愛の母は20年近くパーキンソン病で苦しみ最後は舌が巻き上がり微かに瞼だけ動かせる状態でこの世を去った。父が膝を痛め介護疲れが出始めたころ、補助がいればなんとかトイレまで歩ける段階で兵庫から在宅医療先進都市の旧大和町(南魚沼市浦佐)に母を引き取った。同時に介護休職を申請し、1年の期間満了後会社を辞めた。素晴らしいケアマネージャーや(今でも恩人だと感謝している)や医師(新潟大と雪国大和)リハビリの方々、婦長(現市民病院看護師長)をはじめ介助の方やヘルパーさん、そして後半は八色苑で毎日感動するくらいの手厚く面倒を見ていただいた。
 母のために会社を辞めるとき全く躊躇がなかった。新幹線で浦佐から毎日東京に通っているような破格の待遇で勤務をさせてもらっていた。そんな監督の、突然「やめます。」に、会社のTOP(当時、経済同友会代表幹事)以下役員も部下もみんな理解をして下さった。役員に「留学に、新幹線通勤に、介護休職・・好き放題やりやがって・・お前だけだぞ。全部の制度を独りで使い切ったのは」と言われた。今でも会社に背中を押してもらったと感謝している。そして社外にも応援してくれる人がいて仕事を超えた大きな後押しにささえられた。
 監督はね、会社人間で実働時間は社員の中で1番の自信があった。3時間くらいの睡眠でもOK、時代はバブル、営業実績は絶好調、会社を出るのは午前2時ころだった。
そんな監督が迷いなく母の介護を決めた理由は、一つだけだった。

「もし自分がこれだけ苦しんでいたら、子供の頃熱を出した時、そばで看病してくれたように、つきっきりで母は面倒を見てくれるに違いない。だから息子が母の面倒を今こそ見ないでどうするのだ。」

だから決めた通りにした。毎日おしめを替えて、お風呂にいれて、多いときは夜5回もトイレに連れていった。車椅子にのせ散歩にいったり食事を作ったり、たまには外食にでたり、アメリカ人の妻も100%協力してくれた。母のわかりづらい日本語で彼女も大変だったろう。下の世話に失敗しベットと畳も庭に出して2人で大掃除したこともあった。


 はじめて母を抱き上げてお風呂に入れた時はつらかった。病気のせいで痩せこけていた母を目の当たりにして衝撃を受けた。大きな声で湯加減をきいて体を洗って

「母のほうがつらい。こんな姿を息子にさらさねばならないとは」と自分の感情をおさえた。

母は「ありがとう。いい湯加減やわー」と関西弁で2回言った。


母の力とは何ぞや。子の対する無限の愛情である。これほど尊く心強くそして心地よいものは子供にとってない。母の手紙、母の電話、母の心配、母の笑顔、母の喜ぶ声、そして母の温かい手・・・すべてが子をつつみ、子を育む。瞼しか動かせなくなってこの世を去るまでの最後の2年弱、監督(息子)ががそばにいることすらわからなかっただろう。それでもそんな母から発せられ続ける「母の力」は健在だった。いや死して15年がすぎてもなお揺るぎない。「母の力」とは母が子に注いでくれた無償の愛であり、そっくりそのまま子が母を慕い永遠に引き継ぐ母への恩ではないだろうか。人にやさしくなれる源泉ではなかろうか。
「60億の子に60億の母あれど、わが母に勝る母なし」(親のこころ・木村耕一編)
監督の好きな言葉だ。

みんな、お母さんを大切にしてくださいよ!
                                            監督