日曜の夜、温泉の玄関でのお話。

父親の車を待つほんの数分、お母さんと小学1年くらいの男の子と2年くらいかな、お姉ちゃんが立っている。男の子は人の行き来も気にならず携帯のゲーム機に夢中だ。お母さんも携帯電話をのぞき込む。お姉ちゃんだけ周りの景色を見るように体をひねっていた。

 

たまの休みに家族で温泉につかり、リラックスして夕刻の山並みと涼しい風につつまれる。

「温泉楽しかったねえ。おなかすいた?」

「帰ったら何をしようか」

「また来たいねえ」

「おうちのお風呂と全然違ったねえ」

「お父さんの腰は少し楽になったかなあ?」

なぜお母さんは子供との大切な会話の瞬間を逃すのだろうか。

どうして7歳の息子とのコミュニケーションのチャンスをゲーム端末に授けてしまうのだろう。

 

コミュニケーション能力の充実が教育の場で叫ばれて久しい。教育現場でそれがうまく立ち行かないままコンピューターや携帯電話のPC化、そしてゲーム文化の低年齢化に翻弄されていく。顔を合わせて話すことよりもSNSで会話することが普通になっていく子供たち・・・

 

その行きつく先は対面で絆を維持出来ず、親でさえコミュニケーションが取れない関係だ。

万が一の時、本当に苦しい時、だれかに悩みを聞いてほしい時・・

「お母さん、助けて!」とかわいい命の結晶である自らの子供が真っ先に助けを求められなくなっていく・・・その時気づいても遅い。

 

できる限り子供と話してほしい。

小さいころからいっぱい親の言葉でこどもを温かく包んでやってほしい。

子供は親の鏡という。その鏡が若手PCエンジニアたちが利益目的で開発し続けるゲームや携帯端末であるとするとそれで育った子供が親に「お母さん、助けて」と言えるはずはないじゃないか。

                                                      監督