監督の息子は大きな受験を2回経験した。1回目は中学受験、2回目は大学受験、ともにアメリカの学校だ。中学受験の時は小学4年から受験勉強を開始した。特に最後の1年は1日4時間毎日自分で時間を計ってお勉強をした。レインボーランゲ―ジハウスでアメリカ人講師(PhD)による論文指導も高校生に混じってうけた。そのせいか南魚沼市立浦佐小学校6年のとき学校で

「I can tennis」などと愚かな英語教育を受けていたがそういう影響を回避することができていた。小学6年のときはSSATという共通試験を度々東京まで受けに行きその後アメリカで論文試験や面接をうけた。日本の通信簿の英訳や推薦状など書類をそろえるのも大変だった。受験の年がオバちゃん(前アメリカ大統領)の大統領就任にアメリカ全土が湧き、たまたま受験した中学がオバちゃんの出身校だったので数十倍の競争率となった。

受験の直後、ホノルルの海岸を息子と2人で歩きながら「パパ・・こりゃだめだね・・・」

「おう そんなすごい受験事情とは知らなんだなあ。もうええわ。日本に帰ろう」

「うん」

「何か食べたいものあるか」

「特にないよ」

「そうだよな 帰ったらお寿司食べに行こう」

そう話したのを覚えている。

 

大学受験は2年前だった。1年以上前から実質試験が始まっていた。サマースクールに参加したり指導教官に特別レッスンをうけたり、SATや推薦状や成績表やいろいろあるがそのほかに音大だからとにかくデモテープをおくったり実技の試験があったりと何度か大学に出向き大変だったろう。結局いくつかの大学の合格をきめてかなりの額の奨学金もついたがそれを全部けって最難関の一角をねらった。中学受験の時と同じくこれも狭き門で綱渡りだったと思う。

 

さてレインボーの日々を通じて何百人もの子供とその親とともに合格までの経緯や瞬間、喜び、悲しみ、涙、そして感動や沈黙を共有してきた。数多くの思い出が子供たちの顔とともに浮かぶ。その一方で今振り返るに監督は自分の息子のときどういう反応をしたのか思いだせない。合格したのだからきっと「よくやった。いい子だ」と言ったに違いないがそれさえおもいだせない。なぜなんだろうか。

きっとそれは中学合格のあの8年前の瞬間から息子の長い長い・・旅がつづいてるからだろうな・・

毎日息子の幸せと安全を祈らずにはいられない。

いつの日かまた一緒に温泉に行って車の中で監督のお気に入りの演歌を何回も聞かせたい。

                                                     監督