受験は筋書きのない芝居のようなところがある。

結末が見えないから。

 

受験生はその筋書きのない芝居の舞台役者なのかもしれない。

「受験」というお芝居の舞台に立つ役者だとしたら、舞台の初日は待ってくれない。

けいこ不足でも幕があがれば踊らねばならない。

 

必死で舞い、踊る自分がそこにいる。

「受験」という舞台の上で、何かに引き込まれるようにとどめなく堕ちていくか、たとえ傷ついてもどこかにひっかかるは最後までわからない。

そもそも「受験」というお芝居は筋書きをもっていないのだから思いがけない結末にたどり着くこととなる。

 

A判定の看板役者も、E判定の三文役者も「受験」という筋書きのない芝居の舞台に立ち

先が見えないがゆえに、 何かに託さざるを得ない深い底を感じながらひたすら舞う。

 

「受験」と言う舞台で何かを信じ踊りきったあと、達成感はもとより観客の反応もしっかり自覚できぬまま幕が降りるかもしれない。

 

合格発表の日、3流私立大をのぞいて、依然として合格発表を大きく張り出すという演出をつづける大学も多い。君がその場にいて、もし!「やった!合格したぞ」と歓声を上げている中に、ぽつり押し黙ってじっと天空を見上げているものがいたとしたら、そいつこそ将来、大舞台に立てる役者かもしれない。なぜなら、知っているんだ。今日、「受験」という筋書きのない舞台の幕が何とか降りたことを。そしてこの瞬間から第2幕が始まっていることを。

そいつの胸のうちには「安堵」と「希望」と「不安」が交錯しているかもしれない。

                                                    監督