今日は父の日だから自分と親の関係について考えてみてほしいんだよ。
親の力とは何だろうか。親は子供に無償の愛を与える。「ありがとう」の一言さえ望まないで子供が生をうけてから自分が死ぬまで只管わが子の幸せを願い尽くす。それがまさに親の愛、親の力なのだろう。時として子はそれに気づかない。当たり前のこととしてどっぷり浸りきってしまう.親の苦労、親の思い、親の喜び、親の心配、親の涙、そういうものに気づきが薄い子供は不幸だ。そして結果的にそういう子に育てたのは親だ。だから親も不幸だ。それでも親は子に尽くし続け、結果子供は親に甘え続ける。不毛だ。
親が子に十分な愛情を注いできたからこそ、ここぞという時、親の決定的な影響力が行使できる親子関係こそ子供にとって「絶対の守り」となる。それを意図する子育ては難しいだろうが、一つ言えることは、甘やかすのではないが愛情をたっぷり、ぎっしり詰め込み、寄り添い育てていく中で、時に厳しく叱ることもあるということだ。そういう親子関係を子供が成長するにつれ自然と構築できるているだろうか。時代にも大きく左右されるだろうし、健康や経済的な状況にも振られるだろう。いやはやむつかしい。しかし親子という大きな流れで泳いでいく中でそれは必然であろう。
監督の父は40代前半で再出発して大変だった。いたるところに出かける父の帰りを何時になっても母と待った。携帯などないころだし毎日毎晩、車の音が聞こえたときのうれしい気持ちは今を持ってわすれない。絶対といっていいほど父は玄関に入るなり笑顔で「ただいま」と一言だけ言った。厳しくて怖くてお説教ばかりで遊んでもらう時間も余裕もなかったが、ただそんな父を尊敬し信頼し母と二人でついていったのは自分の大切な親だったからに他ならない。理屈などないかもしれない。父が24時間365日自分に厳しい人でその弛まない苦労は家族のためであり、その苦労をそばで見続けられたのは子として幸いだった。
監督が社会人になって盆と正月に姫路の実家に帰省し2,3泊して東京へもどるようになった。決まって父だけ家の外にでてバス停に向かう監督をずっと見送っていた。角を曲がって見えなくなる直前大きく手を振ってそれでさっと翻って家へ入っていくのだった。もし、父が念願の会社に就職し燃えていた23歳の監督に、「姫路に帰ってこい!」と叫んだら監督は躊躇なく走って戻ったと思う。いつでも会社を辞める覚悟はあったと思う。そういう父と子の絶対的な関係があった。父の事業は順調に拡大していたが自分の商売を継がさないと早い時期に宣言をしてくれて監督は自由に会社勤務をきめ、19年間大手の会社に勤めた。
20年目の春、思いがけず難病に苦しむ母の介護で監督は突然会社を辞めた。父は何も言わず「おかあさんを頼む」とだけ言った。父の会社の税理士に「あんたが会社を辞めたことを、おとうさんはとても残念におもっていた。あんなお父さんの姿は初めてみたよ。」と父が亡くなった後に聞いた。監督が父に「会社を辞めます。」と報告をしたとき特別なそぶりも見せず監督に「入社以来あれだけ面倒をみてくれたんや、○✕社長と○△部長に感謝しないといかん。そこだけはきっちりしとけよ、いいな。」とだけ言った。
監督の息子は20歳になった。監督が父と保ったような絶対的な関係が構築されているだろうか。分からない。もちろん知る術をもたない。妻と2人で子供のために歩んできた年月だけがその答えを知っている。過去にはさかのぼれないが、今も将来も、ある意味、過去の延長線上にある。監督の父がこの世を去るまでそうであったように息子にとって、いつ、いかなる時も信じ切れる父でありたい。そうでなくてはいけない。父親だから。
監督
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親の力とは何だろうか。親は子供に無償の愛を与える。「ありがとう」の一言さえ望まないで子供が生をうけてから自分が死ぬまで只管わが子の幸せを願い尽くす。それがまさに親の愛、親の力なのだろう。時として子はそれに気づかない。当たり前のこととしてどっぷり浸りきってしまう.親の苦労、親の思い、親の喜び、親の心配、親の涙、そういうものに気づきが薄い子供は不幸だ。そして結果的にそういう子に育てたのは親だ。だから親も不幸だ。それでも親は子に尽くし続け、結果子供は親に甘え続ける。不毛だ。
親が子に十分な愛情を注いできたからこそ、ここぞという時、親の決定的な影響力が行使できる親子関係こそ子供にとって「絶対の守り」となる。それを意図する子育ては難しいだろうが、一つ言えることは、甘やかすのではないが愛情をたっぷり、ぎっしり詰め込み、寄り添い育てていく中で、時に厳しく叱ることもあるということだ。そういう親子関係を子供が成長するにつれ自然と構築できるているだろうか。時代にも大きく左右されるだろうし、健康や経済的な状況にも振られるだろう。いやはやむつかしい。しかし親子という大きな流れで泳いでいく中でそれは必然であろう。
監督の父は40代前半で再出発して大変だった。いたるところに出かける父の帰りを何時になっても母と待った。携帯などないころだし毎日毎晩、車の音が聞こえたときのうれしい気持ちは今を持ってわすれない。絶対といっていいほど父は玄関に入るなり笑顔で「ただいま」と一言だけ言った。厳しくて怖くてお説教ばかりで遊んでもらう時間も余裕もなかったが、ただそんな父を尊敬し信頼し母と二人でついていったのは自分の大切な親だったからに他ならない。理屈などないかもしれない。父が24時間365日自分に厳しい人でその弛まない苦労は家族のためであり、その苦労をそばで見続けられたのは子として幸いだった。
監督が社会人になって盆と正月に姫路の実家に帰省し2,3泊して東京へもどるようになった。決まって父だけ家の外にでてバス停に向かう監督をずっと見送っていた。角を曲がって見えなくなる直前大きく手を振ってそれでさっと翻って家へ入っていくのだった。もし、父が念願の会社に就職し燃えていた23歳の監督に、「姫路に帰ってこい!」と叫んだら監督は躊躇なく走って戻ったと思う。いつでも会社を辞める覚悟はあったと思う。そういう父と子の絶対的な関係があった。父の事業は順調に拡大していたが自分の商売を継がさないと早い時期に宣言をしてくれて監督は自由に会社勤務をきめ、19年間大手の会社に勤めた。
20年目の春、思いがけず難病に苦しむ母の介護で監督は突然会社を辞めた。父は何も言わず「おかあさんを頼む」とだけ言った。父の会社の税理士に「あんたが会社を辞めたことを、おとうさんはとても残念におもっていた。あんなお父さんの姿は初めてみたよ。」と父が亡くなった後に聞いた。監督が父に「会社を辞めます。」と報告をしたとき特別なそぶりも見せず監督に「入社以来あれだけ面倒をみてくれたんや、○✕社長と○△部長に感謝しないといかん。そこだけはきっちりしとけよ、いいな。」とだけ言った。
監督の息子は20歳になった。監督が父と保ったような絶対的な関係が構築されているだろうか。分からない。もちろん知る術をもたない。妻と2人で子供のために歩んできた年月だけがその答えを知っている。過去にはさかのぼれないが、今も将来も、ある意味、過去の延長線上にある。監督の父がこの世を去るまでそうであったように息子にとって、いつ、いかなる時も信じ切れる父でありたい。そうでなくてはいけない。父親だから。
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