罪悪感は、どこに残るのだろうか。


心の奥深くに沈むものか。

あるいは、記憶として意識の片隅に留まるものか。

または、身体のどこかに滞留するものなのか。


小学生の頃、私はある些細ないたずらを通じて「罪悪感のかたち」を知った。

そしてそれは今なお、左肩から頬にかけての身体感覚として、私の中に残り続けている。




それは、ある高校の文化祭での出来事だった。


友人と訪れたお化け屋敷。

手作りの内装、薄暗い照明、通路に設けられた仕掛けの数々に、子ども心ながら高揚していた。


その中のひとつに、壁に空いた穴から「手」が出てくる仕掛けがあった。


当時の私は、怖さをごまかすような、あるいは単なるいたずら心からか、

その穴に自分の左手を逆に突っ込んでしまった。


すると、予想外のことが起きた。

中に待機していた高校生が、私の手をつかみ返してきたのである。


驚いた私は、とっさに引っぱり返した。

向こうも反応して力を込めたのか、瞬間的に“引っぱり合い”になり、

その結果、展示のセットが大きな音を立てて壊れてしまった。


驚き、焦り、何より「まずいことをした」という直感。

私は何も言えないまま、友人と共に足早に会場を後にした。


その日の夜は、落ち着かなかった。


「誰かに見られていたのではないか」

「親や先生に知られてしまうのではないか」

「怒られるのではないか」


そんな思いが頭の中を占め、ろくに眠れなかった。

実際、夢の中でまで叱られていた記憶がある。


だが、結果として何も起きなかった。

呼び出されることも、謝罪を求められることもなかった。

私は安堵しながら、徐々にその出来事を記憶の奥にしまい込んでいった。

それでも、大人になった今でもふとした拍子に思い出す。


そしてそのたびに、

左肩から頬にかけて、何とも言えない感覚がよみがえるのだ。


まるで、あのとき掴まれた左手の衝撃と、

咄嗟に顔を引いたときの反射的な緊張が、

時間を超えて、今なお私の中に刻まれているかのように。

心理学の分野では、未解決の感情や強烈な体験が「身体記憶」として残ることがあるとされている。

とりわけ罪悪感や羞恥心、不安といった感情は、

肩や胸、腹部、あるいは顔の筋肉などに、身体的な「違和感」として蓄積されることがあるという。


私の中に残るこの感覚もまた、そうした「身体に刻まれた記憶」の一種なのだろう。


もし、あのとき穴の向こう側にいた高校生が、今これを読んでいたなら、伝えたい。

あのときは、ごめんなさいと。

当の本人は、もう覚えてもいないかも知れないけど。

過去の過ちを消すことはできない。

けれど、それを記憶し続けること、そして折に触れて向き合い直すことには、

何らかの意味があるのではないかと思う。