エイプリルフールだった。
だが、私は嘘をつかなかった。
せっかくの「嘘をついてもいい日」だったのに、何も発しなかったのだ。
機会を逃した、というべきか。いや、そうではない。
つくべき嘘がなかっただけだ。あるいは、つきたい嘘がなかった。
それは、落ちぶれていない証左かもしれないし、単に感性が鈍っているだけかもしれない。
どちらにせよ、私は嘘を選ばなかった。
しかし、こうも思う。
「嘘をついてもいい」と許される状況にあって、嘘をつかなかった者は、
その権利を行使せず損をしたのではないかと。
まるでセール期間に何も買わずに帰ってきたような、
もらえるクーポンを使いそびれたような、
そんな形のない後悔が、ふと胸をよぎる。
正直者とは、嘘をつきたくなったときに、
自らの判断で、つくかどうかを選べる者である。
だから私は思うのだ。
「365日がエイプリルフール」であるべきではないかと。
ただし、それは「365日嘘をつけ」という話ではない。
むしろ逆だ。
365日、いつでも嘘をつくことはできる。
だからこそ、365日、誠実に生きる覚悟が問われるのだ。
「今日はエイプリルフールだから」という免罪符を持ち出すまでもなく、
人はいつだって嘘をつける。
だから私は、今日も嘘をつかない。
生きている限り、人間は、
嘘を選ぶことも、誠実を選ぶこともできる。
選ぶのは、自分だ。