薩摩の春は、匂いから始まる。

裏手の畑一面に広がるいちごの甘い香り。
陽に照らされ、露を弾き、赤く熟れた実が葉の隙間から顔を覗かせている。

「……よく育ったな」

山姥切は静かにしゃがみ込み、熟した実だけを丁寧に摘み取っていく。
無駄のない動き。
籠の底に、赤い宝石がひとつ、またひとつと増えていく。

その隣では、ぴょこぴょこと揺れるナマズオマスク。

「∈(👁️___👁️)∋🍓いちごは今が旬だっぺな〜」

自称ナマズオ族の審神者・ギョリイは、同じように籠を持っている。
……持っているだけで、あまり入っていない。

三十分後。

山姥切の籠は、山盛り。
ギョリイの籠は――五粒。

「おい」

低い声が落ちる。

「なぜだ」

「なにがだっぺ?」

山姥切は主の籠を見る。
主を見る。
そして、主の口元を見る。

赤い。

「……口を開けろ」

「なんでだっぺ!?」

一歩近づく山姥切、一歩下がるギョリイ。

「つまみ食いしているな」

「してないっぺ」

「赤い」

「日焼けだっぺ」

「いちごの汁だ」

沈黙。

そっとマスクの端を持ち上げる。

中で、もぐもぐ。

「……」

口いっぱいに、いちご。
ぽろり、とヘタが落ちる。

山姥切は目を閉じた。

「味見は一粒で済む」

「安全確認だっぺ!」

「何度確認すれば安全になる」

その時、風が吹き、いちごの葉がざわりと揺れた。
春の空は高く、雲は薄い。

山姥切は一粒、丁寧に摘み取り、主の口元へ差し出す。

「……味見は、俺の前でやれ」

ギョリイはぱくりと食べる。
赤く染まるのは苺か、口か。
昼の畑に、笑い声が混ざった。
だが、春の甘さは夜に牙をむく。

「∈(👁️___👁️)∋ぽ、ぽんぽんが痛いぺ……」

夜。
月明かりが障子を透かし、薄青い光が畳を照らしている。
布団の中で、ギョリイは丸まっていた。

昼間、数えきれぬ“安全確認”。冷えたいちごを、勢いのままに。

「……だから言っただろ」

山姥切が布団の傍らに座る。

「安全確認は一粒で済む」

「旬は一瞬だっぺ……」

「胃袋はもっと一瞬だ」

襖が開く。

「大将」

薬研藤四郎が入ってくる。
迷いなく布団の端に座り、主の腹に手を当てる。

「冷えと糖分の取りすぎ。腹が驚いてるだけだ」

「驚きは好きだけど腹は嫌がってるぺ……」

薬研は温めた手拭いを腹に当てる。

「温めろ。今日は何も食うな」

廊下から、そっと覗く影。

「……主、大丈夫?」

加州清光が顔を出す。
その後ろで安定が苦笑する。

「ほらね、食べすぎだって」

「言ってないっぺ」

「言ったよ」

やがて、燭台切が湯を持ってくる。

「白湯だよ。少しずつ飲んで」

温かい湯が、冷えた腹に染みる。
山姥切は、何も言わずに主の背を支える。

「……心配させるな」

小さく、しかし確かな声。

月は静かに窓辺にかかり、夜は穏やかに流れる。
昼の赤は、もう消えている。
代わりに残ったのは、温もり。

しばらくして、痛みは和らいだ。

「もう大丈夫っぺ……」

「明日は粥だ」薬研が即答。

「収穫禁止」山姥切。

「……うぺ」

布団の中で、ギョリイは小さく笑う。

いちごは甘かった。
腹は痛かった。けれど。

赤く染まったのは、口だけではない。
心のどこかも、少しだけ。

春の薩摩は、甘くて温かい。

翌朝。

「∈(👁️___👁️)∋いちごジャムなら胃に優しいっぺ?」

「主」

ぴたり、と揃う声。

「やめろ」