薩摩の本丸の朝は、たいてい穏やかだ。

障子越しの光がやわらかく畳を照らし、
庭の砂利を踏む音が、静かな一日の始まりを告げる。

だが、その朝は違った。

「……うぺ……」

自室の布団の中で、ナマズオがうごめいている。

目覚まし代わりの式神が、主の枕元でぴこぴこと跳ねていた。

ぴこん。
ぴこん。

∈(👁️___👁️)∋「……今日はやけに元気っぺな……」

主ことギョリイは、のそのそと起き上がる。

その瞬間。

ごつん。

天井の梁に、ナマズオマスクの頭頂部が直撃した。

「いったぁぁぁぁっぺ!?」

朝一番の不運、発生。

式神が気まずそうに光る。

「……これはまだ、前菜っぺ……」

気を取り直して立ち上がろうとする。

が。

足が布団に絡まり、盛大に前のめり。

どさっ。

畳に顔面ダイブ。

「畳は優しいっぺ……でもオラは優しくされてないっぺ……」

起き上がる。

今度こそ慎重に。

襖を開ける。

すっ。

廊下に出る。

――きゅ。

床板が、ぬめっている。

誰かが拭いた直後だったらしい。

ギョリイはそのまま、見事な開脚滑走を決めた。

「なぜ拭きたてぇぇぇぇぇっぺ!!」

その声に、廊下の向こうから顔を出す者がいた。

近侍、まんばっぺ。

「……主」

視線が、冷静すぎる。

「なぜその体勢なんだ」

「床がオラを裏切ったっぺ……」

「床は裏切らない」

まんばっぺは淡々と言う。

「あんたの確認不足だ」

「確認する余裕なかったっぺ!」

起き上がろうとしたそのとき。

腹が鳴る。

ぐぅぅぅぅぅ。

沈黙。

まんばっぺの視線が、わずかに揺れた。

「……朝餉は?」

「まだっぺ……」

「起きるのが遅い」

「梁に殴られたっぺ!」

まんばっぺはため息をひとつ。

「朝餉は光忠が用意している。行くぞ」

「歩けるか分からんっぺ……」

「歩け」

「即断定っぺ」

ギョリイはよろよろと立ち上がる。

足取りが妙に頼りない。

廊下を進む。

今度は慎重に。

一歩。

二歩。

――ぽと。

天井から、しずくが落ちた。

ぴちゃ。

ナマズオマスクの額に直撃。

「何の水っぺぇぇぇ!?」

上を見る。

屋根の端から、朝露が滴っているだけだった。

「……自然界もオラを狙ってるっぺ……」

まんばっぺは無言で、ギョリイの額を袖で拭いた。

「狙われていない」

「慰めっぺ?」

「事実だ」

食堂に着く。

光忠が笑顔で振り向く。

「おはよう、主」

「おはようっぺ……」

「顔が湿っているね?」

「天井に泣かされたっぺ……」

光忠は一瞬、理解を諦めた顔をした。

そのとき。

ギョリイの足が、椅子の脚に引っかかる。

がたん。

皿が、かたかたと揺れる。

長谷部が、即座に支えた。

「主!落ち着いてください!」

「落ち着いてるっぺ!」

「落ち着いている人間は、朝から三度も転びません」

「三度目はまだっぺ!」

言った直後、湯呑みにヒレが触れる。

こて。

お茶が、こぼれた。

「……」

静まり返る食堂。

ギョリイはゆっくりと天を仰いだ。

∈(👁️___👁️)∋「四度目っぺ……」

鶴丸がくすりと笑う。

「驚きの朝だな」

「嬉しくない驚きっぺ!」

薬研が冷静に言う。

「大将、今日は部屋で休んだ方がいい」

「不運は連鎖するっぺ?」

「そういう日もある」

ギョリイは、椅子にしょんぼりと座る。

「……朝から世界が敵っぺ……」

まんばっぺが、静かに言った。

「世界は敵ではない」

「じゃあ何っぺ……」

「あんたが慌てすぎているだけだ」

沈黙。

ギョリイは少しだけ、肩を落とした。

「……梁に殴られたのが始まりっぺ」

「梁は動かない」

「オラが動いたっぺ……」

まんばっぺは、ギョリイの前に味噌汁を置く。

「深呼吸しろ」

「……ふー……」

湯気が立つ。

香りが、落ち着く。

「ゆっくり食え」

「……はいっぺ」

箸を持つ。

今度は落とさない。

一口。

「……おいしいっぺ」

光忠が微笑む。

「良かった」

長谷部が腕を組む。

「主が落ち込む必要はありません。多少不運が重なっただけです」

「多少っぺ?」

「多少です」

鶴丸が楽しそうに言う。

「今日は厄日だな。だがな、主」

「うぺ?」

「朝で全部出し切ったと思えばいい」

薬研も頷く。

「これ以上は落ちようがない」

ギョリイはしばらく考え。

∈(👁️___👁️)∋「じゃあ午後は幸運っぺ?」

「たぶん」

「保証はないがな」

「保証してほしいっぺ……」

食堂に、くすりと笑いが広がる。

ギョリイはもう一口、味噌汁を飲んだ。

温かい。

「……朝は負けたっぺ。でも」

顔を上げる。

「本丸は味方っぺな」

まんばっぺが短く答える。

「当然だ」

長谷部が言う。

「主が無事なら、それで良い」

鶴丸が笑う。

「次は何に転ぶか見物だ」

「転ばないっぺ!」

その宣言と同時に、箸がつるりと滑った。

一瞬の静止。

だが今度は、落ちなかった。

まんばっぺが支えた。

「……ほら」

ギョリイは小さく息を吐いた。

「今日は、ゆっくり歩くっぺ」

不運続きの朝。

だが、ギョリイは立ち直る。

梁に殴られても、床に裏切られても、湯呑みに嫌われても。

薩摩の本丸は、ちゃんと主を受け止める。

そして今日も、騒がしく、優しく、
自称ナマズオ族の審神者を包み込んでいるのだった。