審神者の部屋から、じゅわ〜っと音がした。

その音は本丸において、だいたい二種類に分類される。
ひとつは「台所の安全な音」。
もうひとつは「主殿から聞こえてはいけない音」。

そして今鳴っているじゅわ〜は、明らかに後者だった。

へし切長谷部は、廊下でぴたりと足を止めた。
鼻孔に甘い香り。いや、これは甘いというより、焦げの手前の香ばしさ。
さらに、白い煙が廊下の天井近くにたまり始めている。

「……」

長谷部の眉間が、ほんの少しだけ深くなる。
本丸は平和だ。主が戻ってきてからなおさら、平和だ。
だが平和というものは、油断するとこうして煙になって現れる。

長谷部は歩幅を速めた。
主殿の襖の前で、さらに音がはっきりする。

じゅわ〜。
ぱちっ。
じゅわ〜。

中から、主の声。

∈(👁️___👁️)∋「お好み焼きっぺ❤️」

長谷部は一瞬、目を閉じた。

「……主」

返事がない。音だけは元気だ。

じゅわ〜。

長谷部は襖に手をかけた。
この時点で“嫌な予感”は確信に変わっている。

がらり。

「主!何してるんですか!!」

同時に、もくもく、と煙が顔面にぶつかった。
視界が白い。喉が若干いがらっぽい。
そして、畳の上に置かれた小さな卓の上で、鉄板が存在感を放っている。

主は――ナマズオマスクのまま、腕まくりをしていた。
ポーキースーツにエプロン。
その格好だけでもう情報量が多いのに、さらに片手にはヘラ。

∈(👁️___👁️)∋「長谷部〜、見てっぺ!丸いっぺ!」

丸い。
確かに丸い。
だが問題は、丸い何かが“鉄板の上で生きている”ということだ。

「……主、火は誰が付けたんですか」

∈(👁️___👁️)∋「オラっぺ」

「なぜ」

∈(👁️___👁️)∋「心が治ったからっぺ」

「心が治ったから火を使う、という理屈が分かりませんが」

言いかけた瞬間、鉄板の端から油がぱちっと跳ねた。
長谷部は反射で主の前に腕を出す。

「危ない!」

∈(👁️___👁️)∋「長谷部かっこいいっぺ〜」

褒められている場合ではない。

長谷部はまず周囲を確認した。
換気。窓。布団。紙。ぬいぐるみ。
この四畳半は、主のナマズオ文化が濃縮された聖域である。つまり可燃物の宝庫。

「主、まず換気を」

∈(👁️___👁️)∋「換気って何っぺ?」

「窓です。窓を開けてください」

主が立ち上がろうとして、ふらりとよろけた。
長谷部は即座に支える。

「……まだ重傷でしょう。何をしているんですか」

∈(👁️___👁️)∋「重傷は治ったっぺ!今は……お腹が重傷っぺ!」

「それは空腹という意味ですか」

∈(👁️___👁️)∋「そうっぺ」

長谷部は一度、大きく息を吸って――煙を吸いかけて咳き込みそうになり、急いで浅く吸い直した。

「主。台所は燭台切が」

∈(👁️___👁️)∋「みっちゃんは忙しいっぺ。だからオラが主殿で作るっぺ!」

「主殿は台所ではありません」

∈(👁️___👁️)∋「主殿は主のものっぺ!」

「……仰ることは分かりますが、火は別問題です」

じゅわ〜が、さらに元気になる。
鉄板の上の生地が、気泡をふくふくと育てている。
幸い、火の扱い自体は危険というほどではない。だが、この“主のテンション”が危険だ。

長谷部は窓を開け、煙を逃がしながら鉄板の位置を少し安全なところへずらした。
その間も主はヘラを持ったまま、きらきらした目(マスクの目)で見ている。

∈(👁️___👁️)∋「長谷部、先生みたいっぺ!」

「先生ではなく忠臣です」

∈(👁️___👁️)∋「忠臣先生っぺ!」

長谷部は言い返すのを諦めた。
主相手に言葉を整えていると、火の方が先に事故る。

「主。まず――具材は何を入れました」

∈(👁️___👁️)∋「キャベツと、さつまおいもと、モロコシ様(によく似たとうもろこし)と」

「……」

長谷部は、沈黙した。

「お好み焼きに、さつまおいもは一般的には入れません」

∈(👁️___👁️)∋「薩摩の本丸では一般的っぺ!」

反論が強い。

さらに主は、得意げに追加する。

∈(👁️___👁️)∋「あと、ナマズオパウダーっぺ!」

「何ですかそれは」

∈(👁️___👁️)∋「ナマズオ米を粉にしたっぺ!」

「それは米粉ですね」

∈(👁️___👁️)∋「ナマズオ米だからナマズオパウダーっぺ!」

長谷部は、頭の中で“危険度チェックリスト”を更新した。
火の危険より、主の料理観の危険が上がっていく。

「主。ひっくり返すのは俺が」

∈(👁️___👁️)∋「オラがやるっぺ!主の威厳っぺ!」

「威厳は火傷で証明するものではありません」

主はむっとする。
だがむっとしたままヘラを握りしめ、鉄板に身を乗り出した。

長谷部は主の腰を軽く押さえた。

「近い。油が跳ねます」

∈(👁️___👁️)∋「……長谷部、過保護っぺ?」

「忠臣です」

∈(👁️___👁️)∋「過保護忠臣っぺ」

長谷部は、心の中で短く念仏を唱えた。
本丸の秩序よ、ここに来い。
秩序は来ない。主の部屋には来ない。

「主。せめて手袋を」

∈(👁️___👁️)∋「いらんぺ!」

「いります」

「いらんぺ!」

「いります!」

押し問答の最中、鉄板の上で生地が不穏な音を立てた。

ぱちっ。じゅわっ。
――ぷす。

「……」

長谷部と主が同時に鉄板を見る。

一部、焦げた。

主がしゅん、と肩を落とす。

∈(👁️___👁️)∋「……心、また砕けたっぺ……」

「砕けていません。焦げただけです」

∈(👁️___👁️)∋「焦げは心っぺ……」

長谷部は額を押さえたくなった。だが押さえる暇がない。
主が焦げを“心の象徴”として受け取った瞬間、行動が読めなくなる。

「主。焦げは切り取れます」

∈(👁️___👁️)∋「切り取ったら主の人生みたいっぺ……」

「主の人生を食べ物に例えないでください」

主が、突然顔を上げる。

∈(👁️___👁️)∋「じゃあ長谷部が、主の人生の焦げを切り取ってっぺ」

「……分かりました」

受け入れてしまう。
それが長谷部の敗北である。

長谷部は手際よくヘラを入れ、焦げた部分を最小限に削り落とす。
香りはまだ良い。むしろ焦げの匂いが薄まった分、さつまおいもの甘さが立つ。

「……ほら。まだ食べられます」

主はマスクのまま、じっと見つめてくる。

∈(👁️___👁️)∋「長谷部、優しいっぺ」

「主に尽くすのが私の務めです」

∈(👁️___👁️)∋「じゃあ、ひっくり返してっぺ!」

「……はい」

長谷部は鉄板にヘラを差し込み、呼吸を整える。
一度で返す。ここで失敗すれば、主の心がまた“砕ける”。

「いきますよ、主」

∈(👁️___👁️)∋「うぺぺ!いけっぺ!」

勢いが余計だ。

長谷部は腕の力ではなく、手首の角度と重心で返した。
ふわり。
丸い生地が宙を舞うようにひっくり返り、鉄板へ着地する。

じゅわ〜〜〜!

「……成功です」

主が両手をぱたぱたさせる。

∈(👁️___👁️)∋「長谷部すごいっぺ!主の忠臣っぺ!」

「私は最初から主の忠臣です」

∈(👁️___👁️)∋「じゃあ、もう一枚焼くっぺ!」

「待ってください。今の一枚を食べてからです」

∈(👁️___👁️)∋「主は食べながら焼けるっぺ!」

「焼けません」

「焼けるっぺ!」

「焼けません!!」

長谷部の声が少し大きくなった。

その瞬間、主はきゅ、と静かになる。

長谷部ははっとして、言葉を切る。

「……すみません、主。怒鳴るつもりは」

∈(👁️___👁️)∋「長谷部が怒るのは、オラが危ないからっぺ?」

「……そうです」

主はしばらく黙っていた。
そして、ふいに小さく頷く。

∈(👁️___👁️)∋「じゃあ、今日は一枚にするっぺ」

「……賢明です」

長谷部の胸が、ほんの少しだけ軽くなった。
主の“無茶”がひとつ減るだけで、本丸の平和度が上がる。

そこへ、廊下から足音が近づいた。

「長谷部くん〜?」

声は、みっちゃん。

襖の隙間から覗き込んだ瞬間、光忠の瞳がすっと細くなる。

「……主。何をしているんだい?」

∈(👁️___👁️)∋「お好み焼きっぺ❤️」

「……うん。そう」

光忠は笑っている。笑っているが、笑っていない。
料理長の微笑みは、ときに太刀より鋭い。

長谷部は、即座に頭を下げた。

「燭台切光、すまん、主が――」

∈(👁️___👁️)∋「主が元気になったっぺ!」

「……うん。元気になったのは良いことだね」

光忠は部屋を見回す。
鉄板。煙。焦げ跡。米粉。さつまおいも。モロコシ様(によく似たとうもろこし)。

そして、長谷部を見る。

「長谷部」

「はい」

「君、振り回されてないかい?」

長谷部は一秒だけ迷い、そして正直に答えた。

「ああ、振り回されている」

∈(👁️___👁️)∋「長谷部は主の回転寿司っぺ!」

「意味が分かりません!!」

光忠が吹き出した。

「はは。うん、分かった。主。次からは台所でやろう」

∈(👁️___👁️)∋「台所はみっちゃんの城っぺ!」

「主殿も主の城だよ。でも火は僕の管轄だ」

「……ぐぬぬぬ」

光忠は、長谷部の肩をぽん、と叩く。

「長谷部くん、助かったよ。あとで何か美味しいもの作ってあげる」

長谷部は、救われた顔をしそうになって、慌てて表情を引き締めた。

「……ありがたく頂こう」

主が、焼けたお好み焼きを指差す。

∈(👁️___👁️)∋「長谷部、切ってっぺ」

「……はい」

結局、長谷部はヘラを取り、包丁を取り、皿を用意する。
忠臣は、主の心の回復を“切り分ける”役目まで背負う。

主は、最初の一口をほくほくと食べた。

∈(👁️___👁️)∋「……おいしいっぺ」

その声は、さっきまでの落ち込みが嘘みたいに柔らかい。

長谷部は胸の内で、そっと息を吐いた。

(主が笑ってくださるなら――)

その瞬間、主が言った。

∈(👁️___👁️)∋「明日はたこ焼きっぺ❤️」

長谷部の目が据わった。

「主!!」

光忠が笑いながら、長谷部の肩をもう一度叩いた。

「長谷部くん。頑張って」

長谷部は、天を仰ぎたい気持ちを必死で抑えた。

薩摩の本丸は平和だ。
ただし、主が元気になると――火力が上がる。

そして今日も、へし切長谷部は主に振り回されながら、
誰より真面目に“安全”と“愛情”を守っているのだった。