『今夜はずっとついていてあげるから、安心して眠りなさい』
遥か昔の記憶。
薫が熱を出して寝込んだことがあった。
僕は丁度試験の為に大学の寮へ泊り込んでいて、知らせを受けると、
友人が止めるのも聞かずに自宅へ戻った。
『いつか同じことがあれば、私が兄様の元にかけつける。どこにいても、何があっても…』
弱々しい微笑を、熱で高揚した頬に浮かべて薫は言った。
かすかに潤んだ瞳がたまらなく愛しかった。
だが今、高熱に苛まれる僕の元に、薫はいない。
因果応報?
原因を作ったのは僕のほうだ。
むしろここに薫がいれば、そのことのほうがおかしいと、眠りの中ですら知っている。
なのに、今この瞬間、彼女に会えない自分に涙しそうになる。
彼女を近づけないために、彼女に近づかないために、そうしたのに。
この手で罪を犯したその時に僕は彼女を思いきったはずなのに。
今もこんなに求めている。未練がましく。
彼女を求め、与えられないのが、僕への報い。罪の代償。
薫に会いたい、薫の顔が見たい、声が聞きたい。
薫…。
身体が熱い。
それよりも。
果たして彼女はどうなったのだろう。
コンクールの結果はもう出た頃だろうか。
………いや、その前に…瀬木貴興はどうなっただろう。
何故、君が薫の元へ?何が目的で?
もうこれ以上彼女を苦しめるのはやめてくれ。彼女を罪に問うのはやめてくれ。
充分だろう…?もう充分に苦しんでいるじゃないか。
だから…………!
考えがまとまらない……。
身体が熱い…。
「お久しぶりです」
そのとき、冷ややかな声が間近から語りかけた。
高く澄んだ美しい声だ。心地よく僕のなかに浸透する冷たさ。
熱い身体を冷ましてくれる。
悪夢をさまよっていた意識がふと現実に引き戻された。
だが高い塀に囲まれた監獄で僕を知っている人物などいるのだろうか……?
誰だ、声の主は。………すぐには思い当たらなかった。
僕はいつもの僕を取り戻しながら目を開くと、薄暗い天井が目に入った。
さらりと細い指に額を優しく撫でられ、思わず身を堅くした。
ここでは人と肌を触れ合うことなど皆無だから……。
幾分緊張しながら視線をめぐらし、僕はその指の持ち主を見つけて眉をひそめた。
少年から青年に成長しても、場所が変わっても、その天使のような美貌を見間違えるはずがなかった。
「シャルル ドゥ アルディ…?なぜこんなところへ?」
「ご無沙汰しております…」
本当にこの世に天使がいたのなら、きっとこんなふうに微笑むに違いない。
繊細な美貌を甘やかにほころばせ、だが他者を圧倒する芯を秘めている。
大天使ミカエルだ。
一点のくもりもない透きとおるような真白の肌と、目をそらしたくなるほどに眩いプラチナブロンドの髪。
紅を含んだような美しい色の薄い唇が、静かに開いた。
「落ち着いて、聞いてください。私がここにいるわけを」
少女のように高いのに、どこか硬質で柔らかさがない声だった。
僕はふと眉をしかめた。
悪い予感がした。僕のそういった予感は昔から当たる。
感じ取ってしまうのだ、相手の纏う空気を。
僕は恐る恐る尋ねた。
「なに……」
「あなたのことを聞いた薫が、無茶をして心筋梗塞を起こしました」
告げられた事実に、僕は目を見開いた。
「それで薫は…!」
思わず身を起こしそうになって、その細い指に今度は肩を押さえられた。
「大丈夫」
シャルルは僅かな笑みをその唇にのせた。
僕は体中の力を抜いて、大きく息を吐き出した。
シャルルは枕もとのパイプ椅子に座ると、長い足を持て余すように組んだ。
彼が掛けているのはボロボロのパイプ椅子だというのに、彼のもつ気品はちっとも損なわれることなく、
彼の周囲だけがまるでこの場に似つかわしくないほどの輝きを放っていた。
「あなたにもあまり身体に負担を掛けたくない。手短に話します」
「薫は心筋梗塞の発作を起こし、危険な状態でしたが、手術により一命を取り留めました。
しばらくの間は加療が必要ですが、普段の生活に戻ることができるでしょう」
薫の無事を聞いて僕は安堵した。
それまでの薫の状態も、今がコンクールの直後で過労であることも知っている。そして心筋梗塞の怖さも。
心筋梗塞を発症したときの死亡率はかなり高い。
薫の場合はすでに心臓がかなり弱っている、一般の死亡率よりもかなり高くなるはずだ。
死刑を宣告されている自分などより、もしかしたら薫のほうが死が近いのではないかと、不安でならなかった。
無事である確率など、僅かなものだったに違いない。
「よく、無事だった………」
それしか、言えなかった。
シャルルはかすかに笑ったようだ。
「彼女はあなたのことばかり心配していましたよ。自分のほうこそ、死の境をさまよっているというのに」
そんなことは嘘だ。嘘であってほしい。
彼女は自分のことなど気にかけず、自分のことだけを考えていればいいのだ。
懸命に生き、懸命にバイオリンに向かい、懸命に…。
思考が空回りしそうになるのを、僕は何とか留めた。
「あなたの様子を見て欲しいと、自分は大丈夫だからあなたを助けて欲しいと、
ずっとうわごとのようにそう言っていました」
僕はそっと瞳を閉じた。
あってはならない、そんなこと。
でも彼女は覚えているのだろうか。あのときの言葉を。
『おなじようなことがあれば、駆けつける』そう言ったあのときの言葉を。
ならない。
ならない、僕はいなくなるのだから…。いつかお前より先に僕はいなくなるのだから。
僕のことを気にかけてはならない。
でないと、おまえの身体と精神が壊れてしまう。
彼女が壊れてしまう、それだけは許されない。
「お願いしたいことがある………」
何かを反芻するように瞼を強く閉じた巽だったが、ややしてその瞳が姿を現した時には、
先ほどの驚きは姿を消し、まるで夜の海のように静かで落ち着いていた。
以前と変わらず、聡明なその眼差し。
「何ですか?」
私はそっと巽に身体を寄せた。
落ち着いた態度とは違い、呼吸は荒い。
風邪をこじらせ、肺炎を起こしている状態で、大きな声で長く話させるわけにはいかない。
いっときの危険な状態からは抜け出したとはいっても、まだ安心は出来ない。
「君の名声は日本にいても届いていた…。分野を問わず、君の活躍は驚くばかりだったよ」
聞きなれた賛辞は必要ない。
自分の生命の危機を前にして、何を頼む?
この私に。
「断ってくれてもいい。君は忙しいだろうからね。それに、依頼に見合った報酬さえ、
僕は支払うこともできないから」
巽はまた瞼を閉ざした。
疲れたからではなく、何か考え込むように、逡巡するかのように。
でも次に瞳を開いた時、彼はまっすぐに私を見た。
薫に良く似た色素の薄い褐色の瞳で。
しかし彼女のように表情をよく映す三白眼とは違い、彼のそれは常に静かで強い視線だ。
「薫のことを頼みたい」
やはり、か。
診た限り、死刑を宣告され、今まさに病に伏している巽よりも、まだ薫の方が死に近いと言っても過言ではない。
それほど、薫の状態は悪い。
気にせずにはいられないだろう。兄として。
では、私にどうしろという?
「具体的には?」
彼は半ば予想していたのであろう、僕の依頼を。
驚いた様子も見せず、さらりと反問する。
「僕の刑は………おそらく、そう遠くない将来、執行されるだろう」
そう。順番はすぐに回ってくるに違いない。
怖くはない。
罪深きこのカラダに、何の未練もありはしない。
だが。
「そのときが来たら………」
僕は、シャルルの永いときを経て出来上がったまるで氷河のように透明度の高い青灰色の瞳を瞬きもせず、
見つめた。
「弁護士を通して君に知らせを入れる。君の口から、薫に伝えてくれないか」
“響谷巽の刑は本日、滞りなく執行されました”
まるで事務的な拘置所からの連絡で、薫がその事実を知ったならば………。
どれ程のショックが薫を襲うだろう。
大きな精神的なダメージに耐えられるほど、彼女は強くはない。
それは僕が一番よく知っている。
「できるだけ薫がショックを受けないように………君から薫に伝えてやってほしい」
言い切ると、巽は少し辛そうに大きな息をついた。
二人揃って、これか。
私は少し呆れた。
旧知、という言葉には違和感を憶える。
それでも音楽家としての響谷兄妹の活躍ぶりは耳に入っていたし、いずれ、何かしらの形で
再会するだろうとも思っていた。
彼らの母親と私の父とは、友人だから。
そう、彼が事件を起こすまでは………。
その事件の一報はパリにいる自分にも届いていた。
正直、驚かなかったといえば、嘘になる。
殺しても死なないだろうと思えた薫が心臓に疾患を抱えている?
しかもその手術費用を得る為に、あの冷静沈着だった巽がヴァイオリンの名器を横流しした挙句に、殺人…?
何から何まで、気持ち悪さを憶えたものだ。
響谷家が、愛娘である薫の手術費用を準備できないワケがない。
都内にどれ程の土地を持っている?
響谷家が所有しているヴァイオリン1艇でさえ、賄えるはずだ。
巽が激情のままに、妹の病のために人を殺めたなど、嘘臭い。
違うな。
巽に再会し、穏やかすぎる褐色の瞳を見て、私は直感した。
理由はそんなことではない。
では、何だ?
ふと、興味が湧いてきた。
激情のままに生きる薫。
対照的に、穏やかで冷静で、もはやなにものにも執着を見せない巽。
まるで正反対の二人なのに、褐色の瞳に翳る危うさだけが、彼らを結び付けているかのように、そっくりだった。
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なんとなく、UPせずに残っているお話をば、載せてみました。
今、ビルダーをインストールしていなくて、サイトがいじれないので・・・。
巽さんとシャルルが拘置所でどんな会話をしていたか、すごく気になっていて、書いたものです。
が。
何の起伏もなく、面白味も切迫した雰囲気も、大人でシャープなやり取りも、まったく表現できず、
お蔵入りさせていたもの。
『風にかえれ』のサイドは幾つかネタがあるので、いつの日か(たぶん10年以内くらいには)、
軽井沢にまつわるオムニバスみたいな感じでまとめ上げられたらいいなと思い…ます。