「日本の奇跡」政教分離はなぜできた?〜26 分割統治と檀家制度 | 東十五(AZUMA TOHGO)のブログ

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東十五(AZUMA TOHGO)大宮単身赴任中のサラリーマンです。オリジナルバンド「うたっぱワン」。サザン好きなりきり桑田佳祐カラオケや鍵盤とアコギユニット「大宮オールスターズ」も。YouTube、サブスクも。プロレス、歴史好き。よろしくお願いします。

いやあ、
すまんすまん!


すっかり話が明治維新に
飛びましたが
家康の宗教統制
だったね


結論を言うと、

国内の仏教勢力を
完璧に!
幕府の管理下
置いたのだな


これがある意味、
日本に政教分離を
もたらした
完成形モデルなんだな


ではいったいどのように
それを成し遂げたか?


大きな政策としては
2つある!

ひとつは分断策


古くからの兵法によると

「強敵は分断して統治せよ」
とか
「分断して各個撃破せよ」
とか

まぁ、
表現はいろいろあるけど

敵の結束を分断し
仲間割れを誘い

弱体化させてしまえば
どんな敵も倒せる!

ということだな

逆に一枚岩となっている
敵というのは
強いもんね


そういう兵法の極意に
詳しい家康が
極意を意識したのか、
しないのか、

分からないけど


家康は国内最大級の
巨大教団

あの本願寺
東西に分断させる
ことに
成功するのね


分断のきっかけは
秀吉時代

信長との戦いで
武装解除に応じた後
教団内に
内輪揉めが起こるの


(以下、ネット調べ)

*****************

大阪本願寺城を退去した
顕如は50歳で亡くなる
(秀吉の朝鮮出兵の頃)

本願寺では嫡男・教如が
跡を継ぎ12世となる

ところが,顕如の未亡人
であった如春尼が

「末子である准如こそ
正統な後継者である」

と顕如の譲状(遺言状)
があると申し出て
秀吉に仲裁を求めた


秀吉はこれを認め
教如を引退させ
准如を宗主とした

本願寺側が求めたものなので
大きな一揆にもならなかった

秀吉によって京都に
広大な寺地を与えられた
准如は本願寺を
かまえることになった

****************


秀吉からしたら
まさに
渡りに船

跡目争いを
最大限利用した
ってことやね~

さらに話は続く


(またネット調べ)

****************

一方、
徳川の世でしばらく雌伏
していた教如だが

豊臣家が天下を失うと
1602年2月,
家康から京都に
寺地を贈られた

そこで新たに
本願寺を建てた

それは、
先に准如が建てた
本願寺の数ブロック東に
建立されたのである


これにより西本願寺
(准如系:豊臣方)と

東本願寺(教如系:徳川方)
の二つがならびたつことに
なってしまったのだ


これらはあくまで
外部の人間が東西にわけて
呼んでいるだけで,
当の両者は「本願寺」
としかいわない


なぜ分断が固定化されたか

信長に攻められたとき
教如はあくまで
徹底抗戦
叫んだ経緯がある


秀吉にとって教如は
危険人物であり、
相続問題が
もちこまれたことは
もっけの幸いであった

よって、教如を廃し
准如を立てるという裁定
を行ったと見る

あるいは、たきつけたのが
秀吉であった可能性もあるが
それについて寺は認めていない

関ヶ原における行動も
明確であった

准如が石田三成を陣中見舞い
をすると
教如は家康を見舞い、
戦勝後は大津にお祝いに
かけつけている

だからこそ、家康は教如に
広大な寺地を与えたのである

家康は「新たに本願寺を建てる」
という方策で潜在的な脅威
である本願寺を分断したのだ

****************

ネットにも書いてあるが

「准如を廃し,教如を立てる」
だけでもよかったはずである

なぜ、それをしなかったのか?

ライバルを
敢えて残し
お互い憎み合わせた方が
組織というのは
「弱体化」する

ってことを
知っていたから
なんだな


しかし思うのは

こういう跡目争いとか
内部の権力闘争って
ほんと不毛だよね

そしてその不毛なことに
人は意識を引っ張られ
外に目を向けることを
忘れてしまう

だからさ、
国と国の争いなんかも
同じで

世界に平和が訪れるように
なるには
宇宙から侵略者がやって
くるまでは
無理なんじゃないかなf^_^;)

地球防衛軍として
まとまるよきっと(笑)

なんてね


続けます 

家康の死後も
その政策は受け継ぎ
幕府は宗教を
骨抜きにするのね

それがもう一つの政策
である「檀家」制度

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(元は「寺請」制度と
言ったみたいだけど)

それを設けて
一切の布教活動を
禁止した

布教活動とは
教えを広めることであり
信者獲得競争なんだな

これが宗教を
危険たらしめる
諸悪の根源だと
家康は考えたんだろうね


(以下またネットより
引用、加筆)

****************

中世までは各宗派は
布教に熱心であり

庶民の間でも知人に
入信を呼びかけ、

対立している
宗派と武器を取って
殺し合いもした

しかし、江戸時代に
檀家制度が作られたことで
その動きは根絶された


では「檀家制度」とは何か?

人々はどこかの寺に属し
法要・参詣の義務が
課せられた

檀家から外れる
ということは
「キリシタン」のレッテルを
貼られることであり
処罰を意味した

よって、
檀家制度とは
寺の経営を支える
と同時に
庶民を支配する
役割を担うのです


経営の安定を得た寺は
葬式・法要だけで
食っていけることに安住し

人々は今に至るも
それら意外で
寺との接点がない

本来、宗教は個人の問題
なのだが、
家とつながる檀家制度により

「うちの宗派は・・・です」
ということが一般的な
意識として根付いている

****************

ネットの文章が
大変分かりやすかったので
一部修正して
使いましたが、

まさにその通りなんだな

 
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しかし、
すごいアイデアだよね

幕府が寺を管理し
寺には家を所属させ
仏事への参加を
義務づける
 
これにより日本の仏教は
葬式仏教」と揶揄
される通り

宗教の危険な牙を
完全に抜かれ
飼いならされた
と言える

ただ、宗教としては
ある意味、
堕落」してゆくんだな

だって努力しなくても
安定収入があるからさ

参詣と葬儀、法要による
収入、
お布施が入るし

仮に
所属する寺が
気に入らないから
といって
他に移る自由もない

信者の数は決まっている
ずっと固定の現状維持

そうなると
普通は人間、
堕落するよね

宗教だって同じこと

もちろん堕落というのは
サボるという意味ではなく
信者獲得のための

営業努力」をしない
という意味ね


そしてこれにより
世界でも類を見ない
政教分離が
実現するんだから

家康はすごいし

信長、秀吉、家康と
3人の英雄が
日本を変えた!

とも言えるんだな


さて、次回は
いよいよラスト

お楽しみに~(^o^)