プレーについて、
原さんが、後世に伝えていくとして、
ファンが、目に見える形で、
どのように、金田さんのことを思い出せるだろ?
記録集を見ると、400勝という、
既に、100%ではなくて、500%くらい、
到達することが不可能な記録では、
真面に思い出せるものではない。
むしろ、
当時は野球が違った、
などと、トンデモナイことを考えてしまうかも知れない。
メジャーでは、サイ・ヤング賞で、
毎年毎年、、通算511勝したサイ・ヤング投手を思い出す機会が有る。
NPBでは、
沢村賞が、これに当たると思うが、
もちろん、沢村投手も、沢村賞が在ることに、
十分な理由は有る。
しかし、金田さんも、何か毎年毎年、名前を思い出す機会が無いだろか?
それも、後世に伝えていくこと。
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国鉄、巨人などで活躍したプロ野球史上唯一の400勝投手で、昨年10月に急性胆管炎による敗血症のため86歳で亡くなった金田正一さんのお別れの会が21日、東京・千代田区の帝国ホテルで行われた。巨人原辰徳監督(61)が弔辞を読み、長嶋茂雄終身名誉監督(83)、ソフトバンク王貞治球団会長(79)、元楽天監督の野村克也氏(84)ら球界関係者約500人が参列した。一般献花には約400人が集まり、多くの人たちがカネヤンとの別れを惜しんだ。
そうそうたる球界OBの前に立ち、原監督は大きな遺影を見上げた。「金田さん、辰徳です」とゆっくり語り始めた弔辞は、出会いのエピソードから始まった。「初めてお会いしたのは、私が高校3年生の時でした。父に連れて行ってもらった(ゴルフ)コースでした。私の前の組みは金田さん、長嶋さん、王さん。短いパー4のコースで大変な事件を起こしてしまいました。たまたまドライバーが真しんに当たり、1オンしてしまったのです。3人の大先輩が振り向かれ、私は心臓が止まるかと思いました。大きな声で『すみません』と謝りながら、深々と頭を下げました」。
18歳がパー4で1オンするのも驚きだが、金田さんならではの歓迎で迎えられた。「グリーンに上がりボールを探していたところ、ちょっとだけ顔が見えてるボールがありました。あとで聞きましたら金田さんが踏んでくれたそうです。金田さんの愛情を感じました」とエピソードを披露。その後、東海大、巨人で活躍したが、現役時代よりも、02年の監督就任後に付き合いは深まった。近年も年6回程度は食事会を行い、宮崎キャンプ取材や球場などで交流。「金言はいくつもあります」とかみしめた。
繰り返し問われたのは下半身主導のフォーム、柔軟性などの基本に加え、選手のコンデション面だった。「全力疾走、全力投球、全力スイングはできているか。全力で投げられない、走れない人がなぜ野球がうまくなるか。そこからのスタートだよと。それもできずして技術を追い求めようとしても、技術が入ってくるはずがない。その厳しさはありましたね」と言った。弔辞の大役は、長男賢一さんの強い希望で実現した。「偉大な野球人の先輩である金田さんからちょうだいしたたくさんの教えは、私が後世に伝えていきます」と約束した。【前田祐輔】