金森さんのような高いレベルでの経験はない。
しかし、この内容は大変有意義だと実感している。
何故打てるのか?
何故打てなくなったのか?
という漠然としたところか勿論、
何故崩れたか?
何故元に戻らないか?
何故思い出せないか?
と悩み、
自分のベストは何か?
と言っている内は良いが、
もう打てないので?
と、ここまで来ると、かなりキツイ。
150キロ打ちが切っ掛けで、「これだ!」に辿り着いた金森さん、これがベストの「これだ!」」かどうかはともかく、直前の最悪の事態を抜け出せただけでもスゴイ。肉離れが無ければ、どれくらい打てたのか?と思うと、とても残念。
こういう経験をしたコーチが居ると選手は心強い。
プロ選手以上にアマチュア選手の現役で居られる時間は短い。
金森さんの経験を書いた纏まったコーチ本は、ないのだろうか?
そう言えば金森さん、きっと昔、一緒に野球をやっていただか気がする。
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阪神戦力外から3年…38歳で打撃開眼 思い出されるトライアウトの時期
2度の合同トライアウトが終わり、戦力外となった選手たちが身の振り方について悩む季節。「自分はこんなもんじゃない」「もうダメだ」。1992年シーズン後、阪神から戦力外通告された私もそうでした。
この年の阪神は秋まで首位を快走。最後にヤクルトに優勝をさらわれましたが、亀山努、新庄剛志ら若手野手が台頭してきました。35歳だった自分が構想から外れていることは、シーズン中から雰囲気で分かるものです。42試合出場で10安打。足も速くない、パワーもない自分が安打も出なくなったら、ベンチに居場所はありません。
打撃が分からなくなっていました。ボールがとらえられなくなり、打球も飛ばなくなって迷い悩んでいたのです。西武にいた85年に打率7位でベストナインに選ばれたものの、何がよくて結果が出たのか理解できていませんでした。詰まり気味で振り抜いていたうちはよかったのですが、詰まることを嫌がってのびのび打ちたがるようになり、打撃が崩れたのです。
それでも「このまま終わりたくない」という思いはありました。幸いヤクルトで現役を続けることができたのです。「ヤクルト戦でメシを食っている」といえるほど対戦成績がよかったのが、野村克也監督の目にとまったのだと思います。
しかし移籍1年目も迷いは晴れず、7安打どまりで打率は・171。また戦力外でもおかしくない成績ですが、「三振したら使ってもらえない」とボールに食らいつき、10四球を選んで出塁率は・370。チームも優勝して私のクビもつながりました。翌年は「今度こそクビだろう」と覚悟したのですが現役続行。そして3年目の95年の開幕前、打撃の根本を理解するに至ったのです。
当時、ヤクルトの打者はピッチングマシンに150キロもの剛速球を放らせ打撃練習をしていました。私は振り遅れて打てないので、バットをかなり短く持って振ってみたのです。そのうち「これだ!」という感覚に行き当たりました。
スイングの円を小さくして、体幹で振り抜けば打球は飛ぶ。この年は打率・324、出塁率・380。4年ぶりの本塁打も出ました。バットを一番短く持った14年目に長打率は自己最高の・479をマークしたのです。
なぜ自分が打てたのか、そして打てなくなったのか。さまざまなコーチが何を教えようとしていたのか。すべてが見えてきました。しかし翌年は肉離ればかり。2度目の戦力外となりましたが悔いはありませんでした。
もしヤクルトに拾われなければ打撃の本質にたどり着くことさえできませんでした。プロの一線で働ける時間には限りがあります。現役の選手たちにも自分が納得できるところまで、野球に取り組んでほしいですね。