読売新聞代表取締役主筆だった渡辺恒雄さんが19日亡くなられてからテレビ、新聞が渡辺さんのことを扱っていたが、今日も新聞に取り上げられている。
読売新聞2面で「渡辺恒雄氏を悼む」と政治家、経済界、さまざまな人が褒めちぎっている。
それぞれの方に共通しているのは渡辺さんが権力を握ってからの付き合い、知り合いで、お互い立場を得てからの話である。
新聞記者としての現役時代の凄さ、働きぶりを誰も語っていない。何とも軽いコメントであると思った。
それに比べ、朝日新聞4面「昭和の猛烈記者から権謀術数の政治側へ 御厨貴・東大名誉教授が語る渡辺恒雄氏」が的確に渡辺氏を表している。
全文読者の皆さんに紹介したい。
御厨貴・東大名誉教授は、19日に亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏に長時間インタビューし、「渡辺恒雄回顧録」を監修した。渡辺氏の記者人生や政界との関りについて聞いた。
渡辺さんは昭和の男なんですよ。高度成長期の猛烈サラリーマン。「書かない記者」を非常に嫌い、あるべき記者像を追い求めた。
渡辺さんは社内でも猛烈に頑張って、大新聞記者になるぞと思った。だんだん読売新聞と一体化していって、2000年ごろには「我こそ読売新聞なり」となっていった。
政治記者としては、自民党副総裁や衆院議長を務めた大野伴睦や中曽根康弘元首相らに食い込んだ。大野はまさに、昔風の党人派。渡辺さんがずうずうしく近づくと、歓迎されて、派閥の運営も任される。大野も回想録も「全部自分が書いた」と言っていた。
中曽根さんと渡辺さんとの関係は読書会から始まった。書生たちが勉強会をしている感じだった。「中曽根さんを総理にしたい」と思っていた。後年、NHKのインタビューで「中曽根を総理にしてやった」と言っていたが、あれは後知恵だ。「後から考えると俺しかいなかった」と。渡辺さんも認めているんですよ。「総理になってあれだけの仕事をした。中曽根の方が俺よりも一枚上だ」と。
渡辺さんの原点は、戦時中の特高嫌い。軍国主義の教育に反発して、軍隊に行ってもひどい目に遭う。第2次世界大戦は日本の過ちだったとずっと思っていた。渡辺さんは「右」のイメージがあるが右派的イデオロギーが嫌いだった。
読売新聞は1994年、2000年、04年の3回にわたり、憲法改正試案を発表した。彼には「盟友の中曽根ができなかったことを正面から取りあげたい」との思いがあった。それに90年代は湾岸戦争も起き、日本は世界にどう貢献するかが問題になった。読売新聞として旗幟鮮明にした方がいいと思って改正試案を発表した。「ほかの新聞社にはできないだろう。特に憲法にしがみつく朝日新聞にはできないだろう」という彼なりのブンヤ魂だった。
盟友の中曽根さんが総理を終えた後に、禁欲さがなくなった。読売の社長の地位をいかに維持するかということに変わった。
昭和が終わったぐらいの時期からお座敷取材を始める。政治家と会うことを純粋にネタを取って記事を書くというよりも、読売内の権力を維持し、ほかの新聞社を脅かすことに使った。平成の首相は全然駄目という感じがあったんでしょう。「俺が出ていった方がうまくいく」との思いもあった。極めつきは福田政権の時の福田自民と小沢民主の大連立構想。やっぱり、首相官邸の福田康夫首相のところに自ら乗り込んでいく渡辺さんって何だ?ってことですよ。
昭和の猛烈記者、生涯一記者はほめないといけないが、平成になって権謀術数の政治をつくっていく側に変わった。社長や会長の座に固執しなければ、その評価も大きく違ったのかもしれない。(聞き手・池田伸壹)
さすが御厨貴先生と言わしめる見方である。
私も55年前から中川一郎先生の秘書の頃より40代前半のバリバリの渡辺さんの活動ぶり、そして役員、社長へと上り詰めていく流れを知る者として、読売新聞で耳障りの良い、薄っぺらのコメントより、御厨貴先生のお話は深く重みのあるお話だった。
日中、議員会館に出て仕事。17時半から横須賀市でペルシャ湾掃海派遣33周年記念の会に出席。
湾岸戦争終結後、自衛隊が日の丸を背に、初めて組織として海外に出て平和活動をしたのがペルシャ湾での機雷除去だった。
当時、何かあった時の保証も法律もなく、裸同然での出航だった。落合畯司令以下、派遣部隊隊員の見事な任務遂行を称えたい。
落合司令のお父上は、沖縄で自決した大田実中将である。平成3年7月外務政務次官としてペルシャ湾に激励に行ったことが懐かしい。
その落合司令は平成5年7月の北海道奥尻地震で、今度は救援部隊の部隊長として奥尻に来た。
その時、私は3度目の防衛政務次官で、選挙後すぐ奥尻に向かうヘリコプターに「落合です。ペルシャ湾ではお世話になりました。今、奥尻に救援に来ております」と無線が入った。何とも言えない巡り合わせを感じたものだった。
今、自衛隊の任務は広がり、国内は勿論、海外にもPKOはじめ災害等、緊急援助に赴く、その先陣を果たしたのがペルシャ湾掃海派遣であったということを国民等しく知っていてほしいと願うものである。
20日のコメント
ひらけ日本さん、政治家が信念をなくしたら辞めるべきです。魂を失ったら退場すべきです。
ひでおさん、渡辺さんは戦時中の特高(特別高等警察)に強く反発していました。
福島金田さん、お元気ですか。検察の信頼回復に向けて調査をした方がよいのではと言っているのに、全く頭にない答弁に検察改革のため立ち上がらなければと決意も新たにしました。
松村訓明さん、小川さんともよく顔を合わせています。法務省は検事総長が一番偉く、事務次官は4番手、5番手です。この組織構造が検察を思い上がらせていると考えます。とことん筋を通して参ります。
富士筑波隅田川さん、江藤拓農水大臣はお父様も農政族であり、農政には詳しい方です。切り取りの話が最近多いですが、誤解を生むもとですのでやめてほしいです。山田正彦さんは45年前から私の師匠中川一郎先生の後援者でした。
tokoton山の男さん、有難うございます。昭和58年の渡辺さんは一番脂の乗りきっていた時期です。その方にものを言った鈴木宗男は根性だけは負けなったと今でも自信を持っています。佐藤一斎の言葉はまさに至言です。
さださん、いろいろ評価はあると思いますが、渡辺さんは傑出した記者上がりの大読売の社長でした。清濁併せ吞む人間的深みがありました。
※ペルシャ湾掃海派遣33周年記念の会
※77歳の喜寿を迎える方と