今日は沖縄返還から51年である。51年前、当時の佐藤栄作総理が感慨深く、かつ心を込めて万歳三唱している姿が今も目に浮かぶ。

 「沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらない」との言葉も想い出される。

 半世紀以上過ぎても米軍の沖縄駐留は70%以上である。過度な沖縄依存に沖縄県民は複雑な思いであろう。

 沖縄の位置する地政学的な側面もあるが、平和の配当は日本全体が享受(きょうじゅ)しているのであり、沖縄だけに負担を強いてはならない。

 私は政治家として沖縄と向き合って来た。先の大戦で約20万の人が犠牲になった。沖縄の軍人、軍属、民間人が約16万人尊い命を失った。

 次に多いのは北海道人である。その数1万2千人である。最後の本土決戦ということで中国はじめ全国から集められ、北海道出身者が多かったと言われる。沖縄に行くと北海道に対して思いを寄せてくれる。

78年前の厳粛な歴史の事実によることが多いと考える時、先人の犠牲を無にしてはならないと思い私なりに活動して来た。

 平成8年、県道104号線越え実射訓練の本土移転は、村山富市総理がクリントン米大統領と決めたことだが、なんと大分県(村山総理の選挙区)には日出生台という演習場がありながら村山総理は引き受けなかった。

 村山総理が突然辞任し、後を継いだ橋本龍太郎総理の困った顔を見る時「私のところで受けます」と申し出て、北海道別海町の矢臼別演習場に受け入れ、当時の別海町佐野町長に協力戴いた。

 平成9年12月には「学童疎開船対馬丸」を発見したのも私である。当時の小泉厚生大臣が発見に消極的、いや探すことに反対したが、私は押し切って発見した。

 対馬丸遺族会の喜屋武盛榮会長が涙ながらに私の大臣室にやって来た姿が今も脳裏(のうり)に焼き付いている。

 小泉大臣が消極的だったことを当時の厚生省担当者から詳細にした文書をもらっている。

 まだまだ沖縄には政治が必要である。私なりに沖縄の将来を考えて参りたい。

 午前中本会議に出席し、午後、羽田から千歳経由で釧路に飛び、2か所会合に出て日帰りする。

 

14日のコメント

 GOOD LUCKさん、有難うございます。亡き両親、兄、姉のお陰で今日(こんにち)あると感謝しています。特に父親の決断、母の思いやり、忘れたことはありません。

 慎一さん、戦後日本も外国からの支援で生きてきました。今、世界第3位の経済大国としての役割を果たす義務があると思います。

 松村訓明さん、いつも有難うございます。鈴木宗男の生き様を示して参ります。

 さださん、そうです。謝罪するのが世界のトップリーダーの責任だと思います。

 ひでおさん、お母様を大切に大事にして下さい。ウクライナ問題、一にも二にも停戦です。双方、銃を置くよう岸田総理が大きな役割を果たしてほしいものです。

 ひらけ日本さん、上村さとしさん堂々の当選でした。有難うございます。原爆についてアメリカが投下したにもかかわらず、謝罪がないのはどう考えてもおかしいです。広島でしっかり発言すべきと思います。