昨日、外務省は1991年の外交ファイル19冊を公開している。1991年は1月に湾岸戦争が始まり、8月にはソ連でクーデター未遂があり、12月にはソ連が崩壊という激動の時代だった。その時、私は外務政務次官で歴史の事実に触れる機会があった。

なかでも8月、ソ連ゴルバチョフ大統領の消息がわからなくなった。その時「ゴルバチョフは生きている」と電報を送って来たのは佐藤優さんだった。

 外務政務次官の部屋に佐藤行雄国際情報局長が飛び込んできて「ゴルバチョフは生きています。佐藤優から連絡がありました」と報告があった。

 私はすぐにアメリカに知らせろと指示した。アメリカも必死になって消息を追っていたからである。

 佐藤優氏の外交官生活の中でも一番印象に残る情報ではなかったか。

 私自身も1月31日、政府を代表してベトナム避難民救出のため、日本航空のジャンボ機2機、全日空のトライスター2機でエジプトカイロ迄迎えに行った。

 4月には湾岸戦争が終わり、クエート、サウジ、トルコを廻り、日本の支援を伝えた。

 10月にはバルト3国(リトアニア・ラトビア・エストニア)との51年振りの外交関係樹立のため政府特使として(おもむ)いた。その時、リトアニアに行く前に杉原千畝さんの名誉回復を思い立った。

 ランズベルギスリトアニア最高会議議長との会談で杉原千畝氏の栄誉を称えて記念になることをしてほしいと要請し、即座に「スギハラ通り」を作りましょうと返事をくれた。

 1991年は私の政治生活でも忘れられることのできない年である。

 外交文書公開により佐藤優氏の実績、能力が大きく脚光を浴びることだろう。

 18時30分から松山千春さんの今年最後のコンサート。昨夜もそうとう気が入っていたが、今夜はより熱唱することだろう。

明日また、皆さんにお伝えした。

 

21日のコメント

 しんいちさん、ウクライナに武器供与や資金援助を続けると紛争が長引くだけです。尊い命を守るためには一にも二にも停戦です。非難するよりも話合いの機会を作ることが先ではないでしょうか。

 sugibenさん、今も原爆の後遺症で苦しんでいる人がいます。心に傷を負っている人がいるのです。是非とも使ってはいけないものを使った非を述べるのは当然だと思うのです。

 さださんのおっしゃる通りです。

 ひでおさん、佐藤優さんの歴史的スクープです。松山千春さんも元気一杯今年最後のコンサートをしました。

 天川亘さん、同じ認識に感謝します。

 とっとこハム太郎さん、民主的な一番の手続き、しかも複数政党制による選挙という手続きで選ばれております。2001年3月26日です。