新聞、テレビは、夏の甲子園、東北に初の優勝をもたらした仙台育英高校の歴史的快挙を称えるニュースで一杯である。

 第104回を数える大会で、「白河の関越え」はいつになるのか、どこがなるのかが一つの注目であったが、遂に仙台育英が成し遂げた。

 春・夏の甲子園で東北勢が決勝に進出したことが、これまで12度あるが、13度目にしての悲願達成だ。

 須江航監督が優勝インタビューで、「宮城の皆さん、東北の皆さんおめでとうございます」と語ったが、まさに東北の思いが叶ったことが伝わってきた。

 高校野球に間違いなく新しい歴史を飾った仙台育英高校、そして大阪桐蔭、近江を破り、大健闘した下関国際高校の見事な戦いぶりは、のちのち語り継がれることだろう。

 高校野球の素晴らしさに感動と感激をもらったのは私だけではなく、多くの人が感じたのではないか。

 昨日は太平洋戦争で学童疎開船「対馬丸」が鹿児島沖で米国潜水艦「ドルフィン」に撃沈され、約1500人の小学生が犠牲になった痛ましい日である。1944年8月21日、那覇港を長崎に向け出港し、22日夜、悲劇が起きた。

1997年(平成9年)9月、国務大臣沖縄開発庁長官の私のもとに、学童疎開船対馬丸遭難遺族会の喜屋武盛榮会長と下地幹郎代議士が来られ、「これまで代々の大臣に対馬丸の沈没地点の発見をお願いしてきました。話は聞いてくれても誰もやってくれませんでした。鈴木大臣ならと思い、来ました」と涙を流しながら大臣室で床に頭をつけお願いされた。

私は「喜屋武会長さんの思いは受け止めました。やってみます」と答えた。それから防衛庁(当時)に資料を集めてもらい、科学技術庁(当時)に調査船を回してもらうようお願いした。

 防衛庁はアメリカ国防省からドルフィンの当時の資料を取り寄せてくれ、科技庁は、びっしり日程が入っている深海調査船を12月上旬2週間回してくれることになった。

 ところが、慰霊、遺骨収集等は、厚生省(現・厚労省)の所管で、その厚生省が反対だった。その理由は「先の大戦で3000隻の船が沈んでいる。1隻探すと他2999隻まで探すことになり、静かにしておく方がいい」という考えだった。

 当時、厚生大臣は小泉純一郎氏で、小泉氏もその考えに同調していた。私は「戦艦と学童疎開船を一緒にすることはおかしい。丸腰の貨物船、しかも子供たちが犠牲になった。軍艦と同じ扱いは正しくない」と小泉大臣とやりあったものである。

 小泉大臣は「それなら、鈴木さん、勝手にやってくれ」となり、私は取り組んだ。

 防衛庁の資料を科技庁に渡し、一回目の調査で物の見事に海底に横たわる対馬丸を発見した。

 25年前のことになるが、今も鮮明に思い出される、あの当時の経緯である。

 相手が誰であろうとも政治家の信念としての鈴木宗男の強い決意を示した一つの出来事である。対馬丸に乗っていた子供たちが、真っ暗な海に投げ出され、ただただ両親の名前を叫び、助けを求めたかと思う時、胸が痛む。

 戦争はあってはならない。政治の究極の目的は世界平和である。ウクライナで一日も早い停戦が出来る事を願ってやまない。

 ウクライナに武器を供与したり、資金援助すると紛争が長引くだけで、子ども、女性、お年寄りの犠牲が増えるだけだ。軍事支援する欧米諸国の判断は、正しい方向とは私は思えない。一にも二にも停戦である。

 朝の便で釧路に向かうが、横風が強く、2回着陸を試みたが降りられず羽田に引き返す。釧路行きを取り止め、帯広行きに変更した。

 天気は自然の成せる事であり、どうにもならないと言い聞かせた次第だ。

 

22日のコメント

 ひでおさん、今の時代こそ「相見互い」の気持ちを大切にしたいですね。同感です。

 タコ八郎さん、旭大高の戦いは立派でした。

 tokoton山の男さん、対馬丸の経緯、詳しく認識して下さり、有難うございます。

 しんいちさん、これからも改革、改善する点はしていこうと思います。

 sugibenさん、いつもありがとうございます。

 さださん、お金は命の次に大事だと、よく言われますが、その前に倫理観、人としての心を持ちたいものです。

 あずきさん、素晴らしい俳句、ありがとうございました。