明日は沖縄本土復帰50年であり、14時から政府と県主催の式典が行われる。

 昭和47年(1972年)、佐藤栄作首相が万感の思いを込め万歳をした姿を当時中川一郎先生の秘書だった私も感激の面持ちでその光景を見ていた。

 あれから50年、いまだ沖縄は米軍基地負担、経済格差等、問題を抱えている。

 政府としても沖縄振興に務めてきたことは事実であるが、しかしまだまだ成すべきことは多いのが現実である。

 沖縄の特産品といえばサトウキビである。政府保証価格を「上がる、据え置き、下がる」、毎年自民党内で激しく議論されていた。

 中川一郎先生が昭和53年(1978年)農林大臣の時、サトウキビ価格の陳情に沖縄県の超党派市議団が来られ、団長は名護市の比嘉鉄也市議だった。

 農林省の事務の秘書官はじめ官僚は陳情書を受け取り、帰そうとしていたが、丁度私は中川大臣との打ち合わせで秘書官室に来ており「遠い沖縄から来ているのに中川大臣に会わせてやれ」と言ったら、事務方は「アポイントがありませんでした。日程に入っていません」という事務的な答えだった。そこで「俺が大臣に会わせる」と言って大臣室に案内した。

中川大臣は「遠い沖縄からようこそ」と言ってにこやかに話され「北海道のビートの価格は下げても、沖縄のサトウキビは守りますから」と言われた。私はビックリし、北海道の人が周りに居ないか確かめたものである。

 この時のご縁が後に()きてくる。

平成9年(1997年)私は国務大臣沖縄開発庁長官として名護市役所に挨拶に行き、名護市長は比嘉鉄也さんだった。

比嘉市長は「鈴木大臣が農林大臣秘書官の時、ご親切にして戴き中川大臣に陳情が出来、サトウキビの価格も守られました。あの時のことは忘れておりません。必ずお返し致します」と述べて下さった。

 そして12月、橋本龍太郎総理に比嘉鉄也市長は普天間飛行場の名護市移設受け入れを表明された。一寸した親切が歴史の一ページを創ったのである。

 あの時、中川一郎大臣に会わせていなければ名護移設はなかったであろう。人の出会い、巡り合わせは歴史を創ることがある。

 私は秘書にも「一寸した親切心を忘れるな」と強く指導するのは私の経験からの話なのだ。

 その移設が25年以上経っても実現できていないとは何たることか。

 私が大臣の時、考えたのはキャンプシュワブの一部を使い、丘を削って滑走路を作る案だった。

 私が国策捜査に巻き込まれ、表舞台から離れてから海へ海へと変わって行った。そして今の現状である。

 小泉政権の時決めた辺野古埋め立て案は誰が決めたのか。今もってジュゴンのいるあの綺麗な海を埋め立てるのは、天に(つば)するような行為でないか。政治がなかったとつくづく感じる次第だ。

 私はサトウキビの政府保証価格決定に関係し、沖縄振興予算獲得にも努めた。

 県道104号線実射訓練本土移転を誰も引き受けない時、私が北海道、地元の矢臼別演習場で受け入れた。米軍基地の整理、統合、縮減にも汗をかいた。

何よりも学童疎開船対馬丸を発見したのは私が大臣の時である。小泉純一郎厚生大臣(当時)が発見に反対したが、私は押し切って遺族会の皆さんの思いに応えた。

 沖縄とは縁がある私は、これからも沖縄と向き合い、沖縄発展の為に少しでもお役に立ちたいと復帰50年にあたり決意するものである。

 

 

13日のコメント

ひでおさん、激励有難うございます。リハビリ頑張って下さい。

 

さださん、その時その時のムード、流れ、興味本位の報道で良いのかと感がさせられます。

 

しんいちさんの洞察力、観察力に頭が下がります。