海部俊樹元首相が亡くなったことを報道で知る。91歳長生きされた人生である。

 宇野宗佑首相がわずか2カ月で退陣し、次に白羽の矢が立ったのが海部先生だった。

 竹下登先生が「宇野の後は当選回数、経験から海部俊樹か田沢吉郎だ。外向けには海部の方が良い」と言われたことを想い出す。

 竹下先生は当選回数、経験を一つの物差しにしていた。明るさ、水玉模様のネクタイ、クリーンなイメージも追い風だった。「クリーン」と言われたが、メディアが作った部分が多々ある。

 海部先生が世の中で知られるようになったのは、三木武夫総理の時、官房副長官として春闘の時、総評(そうひょう)(現連合の前身)の富塚三夫事務局長とテレビ討論で激しくやり合い、このことで全国的に認知されるようになった。

 政治家は言葉が命とよく言われるが、雄弁(ゆうべん)であったことがその後に()かされたのである。

 浜田幸一先生は海部先生と顔を合わせるとよく「オイ海部、定期預金なんぼ貯まった」と声をかけた。海部先生は「浜ちゃん、余計なこと言わないで」と答えていた。

 総理総裁は派閥の領袖がしのぎを削ってその地位に就くものだが、海部先生はまさに「(たな)から牡丹餅(ぼたもち)」で、お金も使わず天下人となったからである。

 1991年(平成3年)9月30日、金丸信先生が東京農大網走進出の件で網走に行った時、私が同行した。

 金丸先生が記者懇談会をしている時、小沢一郎自民党幹事長から電話が来て、私が出た。小沢幹事長は「海部総理から電話来ても金丸先生に(つな)ぐな」と言われた。

 その日、政治改革法案が廃案となり、政局になっていた時、海部総理は解散をにおわす「重大決意」を発言したのである。

 次の日、金丸先生は「海部はこれまで」という判断をなされた。そして宮沢総理総裁となって行く。もう30年前のことである。

 90年(平成2年)12月29日、海部内閣で外務政務次官に就任した私は、この91年政局が起きた時、杉原千畝さんの名誉回復をしたのである。

巡り合わせ、時の流れを感じる海部元総理のご逝去である。心からのご冥福をお祈りしたい。

 6時55分羽田発で帯広行きに乗り、足寄に向かう。11時半から松山千春さんのお母様の一周忌が執り行われるのでお参りさせて戴く。

 釧路空港から丘珠に向かい、14時から私が関わった「千歳川遊水地群完成式」に出席し挨拶をする。

 昨日、日本の西端石垣島、今日は日本の東部北海道と日本列島を横断したことになる。

 飛行機、高速道路、交通アクセスが地方活性化の(はしら)とつくづく感じながらの昨日、今日であった。

 

※千歳川遊水地群完成式