8月21日(土)

 

 今日の産経新聞5面囲み記事で「大福密約『あった』」「篠原文也氏 不存在説に反論 別の場所、文書は断ると指摘」という見出し記事がある。

正確を記すために全文載せることにする。

 

 福田赳夫元首相の生涯と実像に迫った「評伝 福田赳夫 戦後日本の繁栄と安定を求めて」(五百旗頭真監修、岩波書店)が、福田氏が大平正芳元首相との間で交わしたとされる「大福密約」を「存在しなかったのではないか」と記述した、と7月17日付本紙朝刊で紹介したところ、政治解説者の篠原文也氏が当時の取材をもとに「密約はあった」と反論した。

「大福密約」は、昭和51年の福田政権誕生前に、自民党総裁を1期務めた2年後には福田氏が大平氏に政権を譲る約束をしたとされるものだ。

両氏らが同年10月20、27日に都内のホテルで会談した結果として交わした「念書」なるものも存在する。

篠原氏は「密約があったのは別の場所だ。10~12月の間に、福田派の上原正吉元参院議員の東京・中野の自宅で、福田、大平両氏に加え、保利茂元衆院議長、園田直元外相、鈴木善幸元首相、二階堂進元副総裁が会談した」として続けた。

「福田氏がテーブルに手をついて『1期2年、先にやらせてくれ。その後はあなたに譲る。一筆書いてもよい』と言った。大平氏は『そうした証文は永田町では破られてきた歴史があるのでいらない。あなたの言葉を信じる』と応じた。密約はあるが文書はないということだ」

保利氏の番記者だった篠原氏は、福田氏が党総裁再選の意向を表明した53年に「保利氏がこれまで見たこともないほど怒っていた」(篠原氏)ことから取材を始め、複数の出席者から同様の証言を得たという。

福田氏が生前に残した「福田メモ」には密約の存在を示す記述は存在しないというが、篠原氏は「都合が悪いことなので、メモに残さなかったのではないか」と語った。

 

 このことについて私は当時、中川一郎先生から次のように聞いている。

 保利茂先生と園田直先生が福田赳夫氏を総理にするため、鈴木善幸先生を窓口に福田先生を先にやらせてくれ。一期で辞める。その後は大平先生に譲るということで大平先生に話、大平先生は了解された。その際、福田先生は先にやらせてくれたら一期で辞める。証文を書いてもよいと言われたが、大平先生は保利、園田、鈴木先生が仲に入っており福田先生がそうおっしゃっているならそれで結構だ』」ということになったと聞かされたことを覚えている。

 中川先生は昭和47年の総裁選挙、角福戦争の時は田中先生を推したが、台湾を切り捨て、中国との国交回復をした田中先生に反発し「青嵐会」を作り福田政権を目指し、保利先生、園田先生と懇意にしており勿論福田先生とも近かった。

 中川先生は「福田先生は1年いや半年でもいい。先にやらせてほしい。一期させてもらえば十分だ」と福田先生の並々ならぬ思いを持っていたことも私に話してくれた。

 私的には、篠原さんの言う通りで「密約はあった」と受け止めている。

 その後、昭和53年の総裁選挙で福田先生は大平先生に敗れることになる

 あの時、中川先生は「大平先生は立派だ。福田さん約束には一切触れなかった」と言っていたことを記憶している

 政治の世界、その時その時のさまざまな巡り合わせがあるものだ。

 朝の便で釧路に飛び、根室市に向かい、根室市議会議員選挙、遠藤輝宣、冨川歩、久保浩昭「三銃士」の応援。泣いても笑っても遊説は今日一日である。

 3人ともそれぞれ全力で頑張った。必ず結果は付いてくると確信している。

 どの選挙でも厳しく、油断の出来ないものだとしみじみ思う次第だ。


 根室市議会議員選挙、遠藤輝宣、冨川歩、久保浩昭「三銃士」の応援で街頭演説