今日は76年前、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄慰霊の日である。
コロナで慰霊式典は昨年に続き縮小されて行われるとのことだが、いかに時が過ぎようと沖縄の皆さんにとって、いや日本にとって忘れてはいけない日である。
今も沖縄には駐留米軍の73%が集中している。平和の配当は、日本全体で受けており、沖縄にだけ大きな負担をかけるのは公平ではない。このことを国民等しく心しなければならない。
改めて犠牲になられた方々に心からの哀悼の意を表したい。
 21日の毎日新聞1面「余録」を読者の皆さんにご紹介したい。

 郷愁を誘う津軽三味線の音色は、聴く者の胸を締めつける。各地を旅してその音色を広めたのが初代・高橋竹山(ちくざん)である。18日に生誕111年を迎えた▲幼くして視力を失う。小学校に入るといじめられ、学校に行かなくなる。食べていくためつらい稽古(けいこ)に耐え、三味線を覚えた。家の軒先で演奏してお米やお金をもらう旅に出た。門付(かどづ)けと呼ばれた▲竹山をモデルにしたのが北島三郎さんの「風雪ながれ旅」だ。<破れ単衣(ひとえ)に三味線だけば よされよされと雪が降る 泣きの十六短い指に 息を吹きかけ越えてきた>▲門付けのため竹山は北海道へ渡る。記録映画「津軽のカマリ」によれば、寒さと飢えの中で手を差し伸べてくれたのは、自分と同じように貧しい朝鮮の人だった。以来、感謝の気持ちを表し「アリラン」を弾くようになる。虐げられた人の悲しみと怒りを深く知り、それをバチに込めた▲若い頃は日本が戦争へひた走り、暗く貧しい時代であった。こうも語っている。「わがやってくれと頼んだもんだか」。誰が戦争をしてくれと頼んだというのか。貧困、飢餓、隣り合わせの死。誰もが経験した戦時の記憶は色あせていく。だが今でも竹山の三味線を聴けば、あの頃の人々の苦難を心の奥で知る▲戦後76年。唯一の地上戦を経験した沖縄は23日に慰霊の日を迎える。竹山は初めて訪れた時、島民の深い傷に触れ、演奏会で何分間も言葉を発することができなかったという。島人(しまんちゅ)の心に津軽三味線の音色はどう響いただろう。

 眼は見えなくとも高橋竹山は心眼で人の気持ち、思い、心を察して生きてきている。
 沖縄慰霊の日に当たり、高橋竹山の百分の一、いや千分の一、一万分の一でも近づきたいと心するものである。