今日は1995年(平成7年)阪神淡路大震災から26年である。6400人の尊い命が奪われた。その多くは直下型地震による建物の崩壊による圧死だった。
 当時村山富市日本社会党委員長が総理だった。正確でない、かつ遅い情報発信の官房長官の記者会見が大きく批判された。
 あわせて自衛隊の緊急出動要請に時間がかかったことも国民の怒りを買った。当時、自衛隊を認めていなかった日本社会党の委員長であったが故である。
 その2年前1993年(平成5年)7月12日、北海道南西沖地震が発生し、奥尻島で230人もの犠牲者が出た。
この時は宮沢政権に対し不信任案が通り、衆議院選挙の最中だった。政治が不安定の時、自然がお怒りになると私は思ったものである。
 2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生したが、この時は民主党の菅政権で、当時の枝野官房長官が毎日「今日の放射能は何ミリシーベルトです」と述べ、専門家でない人が説明するものだから国民の不信を買った。結果的に政権は変わってしまった。
 政治がしっかりしていないと、自然が黙っていないのではと私はいつも思っている。
 「天災は、忘れた頃にやってくる」とよく言われるが、「備えあれば憂いなし」である。日頃からの心の準備、態勢を取っておくことをお互い肝に銘じておきたいものである。
 あわせて今日は湾岸戦争から30年である。クウェートを侵攻したイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクへの空爆を始めた。
当時私は外務政務次官で前日から明日開戦という情報もあり、緊張していたことを想い出す。
 あの時1月31日、イラクにいたベトナム人を本国に帰国させるため日本が協力した。私が団長となり、日本航空のジャンボ機2機、全日空のトライスター機2機をチャーターし、カイロに向かった。
 サダムフセインは「民間機であっても我が国上空に近づくと撃ち落とす」と警告していた。無事1000人以上のベトナム人をカイロで受け入れ、成田経由でハノイへ帰還させることが出来た。
 今、「国際貢献」という言葉がよく使われるが、日本が組織だって国際貢献した最初の出来事だったと思う。
 あの時、警察庁から同行してくれたのが現在内閣情報官の瀧澤さんである。当時は新進気鋭(しんしんきえい)の警察官僚だったことが想い出される。
 この湾岸戦争で日本は130億ドル(約1兆5千億円)もの資金協力をしたが、クウェート政府の感謝の広告に日本の名前はなかった。人的貢献をしなかったからである。
 そこで4月、海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾に派遣し、機雷除去にあたった。その時の掃海部隊は落合畯司令であった。
 落合司令はあの沖縄戦で「沖縄県民斯く戦えり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを…」と打電し、自決した太田実中将のご子息である。
 7月外務政務次官としてペルシャ湾に行き激励したが、日の丸を背に真っ黒に日焼けし、黙々と任務遂行にあたる自衛隊員に、ただただ頭の下がる思いであった。
 今、PKO(国連平和維持活動)緊急災害活動と世界に自衛隊は出て行っているが、自衛隊として組織で海外に出たのはこの掃海部隊であることを国民の皆さんにはよく知って戴きたい。
 この30年、私にも人災ともいえる権力闘争があったことを振り返りながら、改めて「生きていれば良いことがある。いや、逆転もある」と思いながら、私の役割を果たして参りたいと決意するものである。