長崎原爆の日、今なお、被爆で苦しむ人がいる事を本人は勿論、ご家族ご一統がどんな思いでいるかをよく考えなくてはならない。
 政治の究極の目的は「世界平和」である。世界で唯一の被爆国・日本として、安倍総理を先頭に核をなくすために、さまざまな角度から行動をしなくてはならない。
 広島、長崎の人が負った惨状を再び見たくないし、見る事があってはならない。
 今日の産経新聞1面「産経抄」の一部を紹介したい。
 「『水をください』とうめく少年の脇を、青年は耳を塞いで通り過ぎた。手持ちの水はあげられない。閃光(せんこう)に倒れた瀕死(ひんし)の兄に飲ませるため-青年は後に、そう振り返っている。長崎で被爆した歌人の竹山広である。日々の営みを一瞬のうちに焼き尽くし、残された人々に消えることのない傷を刻んだ。史上最も罪深い惨禍である。当時25歳の歌人は、後々まで悔恨に苦しみ、被爆体験を歌に詠めなかったという。〈うち捨てし少年の眼をその声を/忘れむことも願ひつつ来し〉。第一歌集『とこしへの川』にこの歌を収め、世に問うたのは昭和56年、被爆から36年がたっていた。憤り、嘆き、痛み、悔いの言葉を鋭い刃先にゆわえ、晩年まで人類の犯した過ちを切り刻んだ。〈原子爆弾一発をだに報いずと/生きのびてながく苦しかりしを〉。語る口を失った人々に代わり、短歌という刃物を手に戦い続けた人だろう。今年で没後10年になる。われわれ戦争を知らぬ世代は、『語り継ぐ』という重荷を竹山ら被爆者の背中に負わせてきた。戦後75年という月日のむごさを思わせる、今年の長崎原爆忌である。』」
 水を欲しがる少年、しかし、瀕死の兄に水を飲ませたい弟の思い、何とも言えぬ情景が浮かんでくる。
 読売新聞6面、シリーズもの「戦後75年終わらぬ夏」「葬儀後まさかの復員 最後の1席譲り娘さん救う」という見出し記事に目がとまる。
 長崎平和記念像モデルとなった吉田廣一陸軍大尉の事が書かれている。一部紹介したい。
 「カンボジアから日本へ帰る最後の飛行機が1機、待機していました。6人乗りの機はすでに満席でした。そこへ身重の若い娘がやってきて泣いて搭乗を乞います。父は自分の席を娘さんに譲り現地に残りました。祖母、ゲンの元には戦死公報が届きます。ところがお葬式も済ませた後の46年5月、父がひょっこり帰還しました。『ただいま』の声に祖母はさぞ驚いたことでしょう。父はサイゴン経由の船便で帰ってきたというのです。母校の徳島県立脇町高校の教員だった67年、父は不慮の事故で48歳で他界します。同僚教員が父の机の中を整理した時、飛行機の席を譲った娘とやりとりした手紙が見つかりました。同僚が娘さんに父の死を連絡すると美馬市脇町の最明寺に眠る父の墓を訪ねてくれ、カンボジアでの父との命の関係を涙ながらに話してくれたそうです。」
 自分の事を最優先すべき状況で、人として最高の「情」「心」を示した吉田大尉の姿に頭が下がる。助かった娘さんがどんなにか感謝したことか。想像するだけで胸震えるものである。
 人生ドラマがある。生死を懸けた場でのそのドラマは崇高で気高く、まさに人の心を最高に表すものと私は考える。
 私自身、困っていたら相談にのったり、私なりに出来る事はしてきたと自負するものだが、未だ足らざる事が多いと反省するものである。
 今日8月9日は予定通り行われていれば、東京オリンピック閉会式である。「平和の祭典」」が来年必ず行えるよう願ってやまない。