検察定年延長を巡る検察庁法改正案で、元検事総長らが反対意見書を法務省に出し、記者会見までしている。
 意見書は、ロッキード事件の捜査経験者からなっているが、そもそもロッキード事件捜査は正しかったのかどうか、今になって日本は勿論、アメリカでも、さまざまな意見が出ている。
 金脈問題から端を発してロッキード事件へと向かって行ったが、権力の絶頂の時に検察が挑んだのならは評価できるが、田中氏が総理を辞め、三木政権になり、世論に乗っての使っての事件ではなかったか。さもさものように正義感ぶる姿に嫌悪感を覚える。
 あの時、検事総長布施健の名を騙り、鬼頭史郎元判事が三木総理に電話している。その時のやりとりを今一度検証してみる必要があるのではないか。
 当時、私はそのテープを直に聞いている一人である。三木総理が何と言っているか、ニセ電話で官邸も「田中逮捕に同意している」との話が検察にも伝わり、検察は動きやすくなった。
 各省のトップは事務次官であり、事務次官が事務方の最高責任者であるが、法務省の事務次官は、検事総長、次長、東京高検長の下に位置付けられ、人事も検事総長にお伺いを立てるのが慣例になっているのが実態でないか。
 これだけでも悪しき慣例であり、正しい組織であるかどうか、チェックしなければならない。
 定年で辞めた人たちが人事介入ともとれる動きをする事に、辞めても尚、我々が国家の支配者だという思い上がりとも言える姿が見えてくる。公証人や大企業の顧問弁護士として天下っている検察官である。
 民主主義は手続きである。国民主権であり、その国民が選んだ国会議員が議院内閣制に則り、大多数を構成する与党が政府をつくる。その政府が人事権を持っているのである。
 今回の検察OBの動きは、国民から選ばれた「国会・内閣」と「検察」どちらが国家の主人かという構図の民主主義の闘いである。
 検察官は間違って起訴し、冤罪が起きても誰も責任は取らない。政治家は選挙の洗礼で落選させられるのである。
 上から目線の、あの村木事件の反省も活かされていない検察組織とあらためて思いながら、いつかきた道、あの陸軍の関東軍とおぼしき、また、皇道派と思われるような一部検察とは対峙していくことが民主主義を守る唯一の道であると胸に刻んで参りたい。
 読者の皆さんはいかがお考えだろうか。