昨日は小渕恵三先生のご命日、本日は安倍晋太郎先生のご命日である。
 20年前、29年前を振り返りながら、心からのご冥福をお祈り申し上げたい。
 どの世界も「タラ」「レバ」はないが、特に政治の世界では、もし、あの時「こうしていレバ・こうしていタラ」は、いつの時でも目的が達成、果たせなかった時の悔いや反省として出てくる。
 平成12年(2000年)3月26日、ロシアで大統領選挙の結果、プーチン大統領が誕生した。翌27日17時、小渕総理はプーチン氏に大統領当選のお祝いの電話をし、その際「1月にも話したが、鈴木宗男衆議院議員を派遣するので首脳会談の日程を決めて戴きたい」と述べられた。
 プーチン氏からは「4月4日15時、クレムリンでお会いしたい」と返事が来た。
ところが4月1日未明、小渕総理は倒られてしまった。私は訪ロはなくなるものだと考えていたが、1日夜、野中広務幹事長代理から予定通り行ってほしい。森喜朗次期総理からも「総理になって最初の訪問国はロシアにするので必ず首脳会談の日程を取り付けるように」と電話があった。
 3日、私はモスクワに向かい、4日予定通り大統領選挙に当選したばかりのプーチン氏と会い、乾坤一擲の思い、情熱をこめて会談し、その場で「4月29日、サンクトペテルブルグで森次期総理をお迎えしたい」とプーチン氏から快諾を得た。
もう20年前になるが、鮮明に想い出される場面である。
 小渕総理がお元気で、自民党総裁を2期(当時1期2年)やれば、歴史が作られたのではと今も悔やまれる。
 森喜朗先生がその後を継いで、プーチン大統領と極めて良好な関係を築き、今もその信頼関係がある。
 2001年3月26日、イルクーツクでの森―プーチン日露首脳会談が北方領土解決に向け、一番近づいた時だとあの時、森総理に同行し、全体首脳会談にも同席し思ったものである。
 ところが1カ月後、政変が起き、小泉純一郎氏が総理になり、空白の日露関係10年へと向かって行った。
 そして2012年(平成24年)安倍晋三総理が再登板されてから日露新時代がスタートした。
 平成3年(1991年)4月16日、ソ連の最高首脳ゴルバチョフ大統領が訪日された。あの時、私は外務政務次官で、ゴルバチョフ大統領の行事日程に同行した。
今でも鮮明に想い出すのは、18日衆議院議長公邸での歓迎式典に安倍晋太郎先生は入院先の順天堂大学病院から駆け付けられた。側についていたのは安倍晋三秘書、現総理である。
 痩せておられて、見るからに無理をして出席されていることが伝わってきた。
 ゴルバチョフ大統領が気遣いの言葉をかけられたが、安倍晋太郎先生はにこやかに応対された。その1か月後旅立たれたのである。
 あの時、私は政治家の信念、魂を安倍晋太郎先生から教えられたものだ。その出来事を当時5歳の鈴木貴子代議士に話したものである。
 安倍晋三総理がいつも山口に帰り、お墓参りをした際、記者団の質問に対し「日露平和条約、北方領土問題解決を自分の手で成し遂げると誓いました」と答えているが、安倍総理には29年前のあの時、お父上が最後表に出た場面をいつも十字架として背負っているがゆえの決意の言葉であろう。
 だからこそ北方領土問題解決、日露平和条約締結は、安倍総理にしかできないと確信している次第である。
 今もメガネをかけ、ニコニコした在りし日の安倍晋太郎先生のお顔を想い出しながら、私の師匠である中川一郎先生とは毎晩のように会っており、私もよく一緒させられたことがあり、その後、国会議員になってからも安倍晋太郎先生からは「中川昭一君に会うより、鈴木君に会うと一ちゃん(中川一郎先生)を想い出すよ」と言われたことを想い出しながら、安倍晋太郎先生が天国から安倍晋三総理を見守り、日露平和条約締結の後押しをしていることとご命日にあたり、しみじみ思ったものである。