今日は、学童疎開船「対馬丸」が米国のボルフィン号に魚雷攻撃され撃沈された日である。75年前の事である。この「対馬丸」とは私も関係がある。
 平成9年9月11日、橋本龍太郎内閣で国務大臣沖縄開発庁長官を拝命した。その2週間後、沖縄選出の下地幹郎代議士が、対馬丸遭難者遺族会会長の喜屋武盛榮氏を伴ってやってきた。
 喜屋武会長から「対馬丸の沈没地点が特定されず、鹿児島県のトカラ列島、悪石島付近の4カ所で慰霊しているのが実態だ。鈴木大臣、あなたならやってくれると思いお願いに来た。歴代大臣に要請したが、誰もやってくれない。私ももう歳だ。生きているうちになんとかしてほしい。」と涙ながらに言われた。
 私は即座に「やりましょう」と答えた。
そこまではよかったが、大きな壁が出てきた。厚生省である。援護事業は厚生省の管轄で、その時の大臣は小泉純一郎氏だった。
 私は厚生省に話すと、けんもほろろだった。小泉大臣は「先の大戦で3000隻の船が沈んでいる。1隻探すと他の2999隻も探すことになる。海は安寧の地だ。そっとしておいた方がよい」との事だったので、私は、「戦闘行為で沈んだならば、それも一つの考えだが、丸腰の学童疎開船対馬丸を一緒にするのはおかしい」と言うと、「それならば勝手にやってくれ」という返事だった。
 私は、遺族会の喜屋武会長に約束した事でもあるし、政治家としての意地、信念もあったので、「それならばやらせていただきましょう」と啖呵を切った。
 私には考えがあった。防衛政務次官を3回やっており、防衛庁(当時)にパイプがあり、昭和19年8月22日のボルフィンの速度、風力、魚雷のスピード、対馬丸の速度等、資料を取り寄せてもらった。
 海底に沈んでいる船を探すには、科学技術庁(当時)に深海に潜れる船があり、その船の予算は、中川一郎科学技術庁長官で私が秘書官の時つけたものであり、その時の事務秘書官だった岡崎氏が、科学技術庁のナンバー2の審議官になっており、深海に潜れる船を貸してもらう事にした。
 こうして12月初旬、現場で調整したところ、一発で電波反応があり、沈没地点がわかった。更にカメラを載せ写真を撮ったところ「対馬丸」という文字がはっきり出てきた。
 下地代議士を通じ、喜屋武盛榮遺族会会長にすぐ知らせた。喜屋武会長は涙を流して喜んでくれた。
 そして翌年3月、沈没地点で慰霊式を行う事になり、厚生省が「小泉大臣が出席してお悔やみの挨拶をしたい」と言ってきたが、私は、「ふざけるな。沈没地点を探す事に反対しておきながら、こちらが見つけたのに、いいとこ取りは許さない」と言った。
 局長、課長が再々きたので、私も援護は厚生省であるから折り合いをつけたものである。当時の援護局長は炭谷で、担当課長は松永であった。
 あの時、後に小泉氏が総理大臣になるとは、夢にも思ってなかったので、私は強く出たが、こんな巡り合わせもあり、小泉政権が誕生すると「改革小泉」VS「守旧派鈴木」というレッテル貼りがされ、私はパージされる事になった。しかし私は堂々と筋を通して、政治家として生きてきた。
 いつの日か、政治家鈴木宗男としてお前は何をしたかと問われると、
 一に、外務省の反対を押し切って杉原千畝氏の名誉回復をした。
 二に、厚生省の反対に負けず対馬丸を発見した。そして対馬丸記念館建設に寄与させていただいた。
 三に、誰よりもロシアと向き合い、北方領土問題解決に取り組んできた。
 と答えたい。
 対馬丸撃沈から75年の今日、縁あって7月に参議院議員を勇退された儀間光男氏のパーティーが那覇市で行われ出席した。
 しみじみと22年前を振り返り、政治の世界、時に権力闘争であり、時に巡り合わせ、運命、宿命だとつくづく考えた次第である。