メディアは第100回全国野球選手権大会決勝戦を伝えている。
全国紙の1面コラムは、多くの人が目にするコーナーである。なんと4紙が話題にしている。読者の皆さんに紹介したい。

日本経済新聞「春秋」
「風とひのきのひるすぎに」。宮沢賢治が教え子とキャッチボールしたさまを「芝生」という詩に残している。岩手県の花巻農学校(現・花巻農業高校)の教師時代のこと。「灰いろのゴムのまり/光の標本を/受けかねてぽろつとおとす」。あっと声が上がるようだ。
きのう、第100回の夏の高校野球が幕を閉じた。賢治の詩にあるように、球を追うことそのものを楽しみつつ、粘り強い戦いぶりで際立ったのが雪国、秋田県の金足農業高校である。決勝は大差での敗退となってしまったけれど、得点のたびに甲子園球場がホームグラウンドのような大歓声に包まれたのが印象的だった。
今大会、ほぼ一人で投げ抜いた金足農のエース、吉田輝星(こうせい)くんは、かなり負けん気が強いという。自室にプロ選手のポスターは一切ないと聞く。すごい人たちを見ていると自分の力量が情けなくて悔しくなるから、というのが理由らしい。そんな大黒柱も2度の春夏連覇を目指した強豪に力尽き、端正な顔を涙でぬらした。
徳島・池田高校の故・蔦文也監督の生前の弁がある。「負けるのは不名誉ではない。不名誉なのは負けて駄目な人間になることだ」。人生は敗者復活戦、と喝破した名伯楽の金言だ。深紅の大優勝旗を東北に持ち帰る夢は後輩たちに託し、今度は新しい「光の標本」をつかまえるとしよう。ぽろっと落とさぬよう注意して。

毎日新聞「余禄」
「寝ていて人を起こすことなかれ」。甲子園を最後まで沸かせた秋田県立金足(かなあし)農業高校のグラウンド脇に建つ石碑の文だ。秋田生まれの明治時代の農業指導者で「農聖」と呼ばれる石川理紀之助(りきのすけ)の言葉で同校の教育方針でもある。石川は秋田や宮崎で貧農の救済を実践した。夜明け前に板をたたいて村人たちを起こし、共に仕事に励んだ経験から、人を動かすにはまず自分から率先垂範せよと冒頭の言葉を残した。言葉の歴史的背景はともかく、「他人任せにせず、まず自分から」という精神は現代っ子の野球部員たちにも浸透しているのではないか。全員がのけぞって全力で校歌を歌う姿にそんな思いを抱いた。戦前から歌い継がれてきた校歌も含蓄がある。「霜しろく 土こそ凍れ 見よ草の芽に 日のめぐみ 農はこれ たぐひなき愛」。雪国の厳しさと農業の喜びがうたい上げられている。「雑草軍団」と呼ばれる野球部が甲子園初出場を果たし、芽を出したのは1984年の春の選抜だ。その夏の甲子園でベスト4入りし、その後は甲子園出場を争う常連校になった。長靴で雪の中を走り、足腰を鍛える伝統が強さを支える。34年前はPL学園、今回は大阪桐蔭と強豪校の高い壁に阻まれたが、秋田勢では103年ぶり、農業高校では戦後初の決勝進出はやはり快挙だろう。野球は記憶のスポーツともいわれる。大阪桐蔭の2度目の春夏連覇という偉業と共に金足農の活躍も多くの高校野球ファンの記憶にとどまるのは間違いあるまい。

産経新聞「産経抄」
第100回全国高校野球選手権大会は、大阪桐蔭が史上初となる2度目の春夏連覇を達成して終わった。もっとも、大会の話題をさらったのは、準優勝の金足農である。
 「雑草軍団」と呼ばれたチームが強豪校をねじ伏せるたびに、ファンの熱気が高まった。秋田県勢として103年ぶりの決勝進出を果たし、東北勢として初めて甲子園の頂点に立つ夢まで、あと一歩まで迫った。
 大阪桐蔭以外にも、作新学院、中京商、PL学園、横浜、興南、そして箕島が、春夏連覇を達成している。このうち金足農と同じ公立高は箕島だけだ。平成23年に68歳で亡くなった尾藤公(びとう・ただし)監督は、やはり地元出身の選手だけを率いて、甲子園を4度制している。
 尾藤監督が小紙の取材で、思い出の選手の一人として挙げたのが、昭和52年春の大会で、2度目の優勝を成し遂げた際のエース、東裕司投手である。前年秋の近畿大会で痛めた左ひじが完治しないまま、6日間で5試合を投げ抜いた。2人は試合後、報道陣の目を逃れて治療のために宿舎と箕島(和歌山県有田市)をタクシーで往復していた。
 最後は左ひじのまわりが紫色に変色していたほどだ。定時制の生徒だった東投手は、昼間は自動車整備工場で働き、それから練習、授業を受ける。会社と学校の間往復20キロをランニングする生活を3年間続けた、そのがんばりが優勝を導いたと、監督は語っていた。
 「東北と、秋田の夢を背負って挑む」。その言葉通り、金足農の吉田輝星(こうせい)投手は、準決勝までの5試合すべてを完投した。決勝では大阪桐蔭の強力打線につかまりマウンドを降りたものの、今大会屈指の好投手、との前評判通りの活躍だった。口に出さない苦しみに耐えながらの熱投だったのだろう。

東京新聞「筆洗」
 正直にいえば、このコラム、甲子園球場にプレーボールのかかる二時間前から書き出している。禁じ手かもしれぬ。どちらが勝ったか。どんな結果になったか。それを見ずして野球は書けぬ。結果がすべて。おおげさなことをいえば、人の営みのすべてが結果によって判断されてしまいやすい  
決勝戦の終了を待たなかったのはどんな結果であれ、この夏、その高校が見せた輝きは色あせまいと思えたからである。秋田県立金足農業高校。秋田県勢としては百三年ぶりとなる決勝戦進出までの過程でわれわれの胸に大きな何かを残してくれた。縁もゆかりもない人びとが秋田の農業高校に惹(ひ)きつけられ、がんばれと声を上げたのは、その有利とはいえぬ野球環境のせいかもしれぬ。雪深い地域では冬場の練習は難しい上、公立の農業高校では選手の確保も楽ではなかろう。高校で初めて硬式球に触れるような地元出身者を鍛え上げてここまで来た。選手交代をせず、九人だけで戦ってきたのも選手層の薄さもあったに違いない。準々決勝の対近江高戦。スクイズで三塁走者に続き、二塁走者まで生還した場面。ベンチの事前の指示ではなく、二塁走者のその場の判断と聞いてうれしくなる。そのベースボールは泥くさくも自由で朗らかに弾んでいた。試合終了のサイレンが聞こえる。そうか大敗したのか。それがなんだというのだろう。

 二度目の春夏連覇を果たした大阪桐蔭も立派だが、公立校として、しかも秋田県のみの地元選手で愚直に戦った金足農業高校に圧倒的声援があったのは、やはり地方の輝きだったのだろうか。
 東京にいる人も、大阪にいる人も、元は地方出身者である。自分の故郷に思いを馳せない人はいない。金足農高の頑張りは、自分自身に重ねた人も多かったのではないか。
努力すれば、頑張れば栄光の舞台があることを教えてくれた金足農高に有難うと最大の感謝と敬意を表したい。
 夢は果たすためにある。金足農高選手の前途に幸あれと祈ってやまない。