野中広務先生が亡くなり、テレビ、新聞は、在りし日の政治家・野中広務先生を伝えている。
 昭和58年10月、野中先生は衆院京都選挙区の補欠選挙で、谷垣禎一さんと一緒に当選しました。57歳だった。
 その2か月後の衆院選挙で、私は35歳で国会に出ていき、金丸信先生のお陰で、それ以来ご指導を賜った。
 橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗各総理総裁の時、一心同体で政権を支えた。特に小渕政権での官房長官、副長官として、森政権での幹事長、総務局長としてお仕えし、当時、野中―鈴木ラインと言われた事が懐かしい。
 今となっては昨年8月、山口県での吹田愰先生のお別れ会でお会いしたのが最後となってしまった。
 心からのご冥福をお祈り申し上げたい。
 札幌で、公明党北海道本部新年賀詞交歓会に出席し、挨拶の機会があり、平成11年の自民党、自由党、公明党の連立政権に至る経緯に野中先生が大きな役割を果たした事、平成12年6月の衆院総選挙で自民党と公明党との選挙協力で、当時、自民党の中で一番公明党を理解したのが野中先生であった事など話させて頂いた。
 時間が経つと、連立の経緯やそれに至る政治状況等、薄らいでくる。歴史的な事実を若い政治家にはよく知っておいてほしいものである。
 18時から、留萌市で私の後援会長である堀口亘氏のお父上のお通夜に参列。今や全道にその名を知らしめる堀口グループの創業者である。全道各地から沢山の人が弔問に訪れていた。
 立派な人がいたものと、改めて感じた次第である。