8日から11日まで北方領土色丹島にビザなし交流で訪問していたら日本で歴史的な出来事が起きている。
 陸上の桐生祥秀選手が100mで日本人初の9秒台9.98の記録を出している。
 4年前、高校3年で10.01秒を出し、夢の9秒台を多くの国民が待ち望んでいたが、大学生活最後の年に達成した。
 貯まった新聞を読みながら、桐生選手のはじけるような喜びの顔が印象的だった。東京オリンピックでの活躍を祈りたい。
 朝の便で青森に向かい、故木村太郎衆議院議員のお別れの会に参列する。7月25日52歳の若さで永遠の旅立ちである。ご本人が一番無念であったことだろう。
 政治家としてこれからが本舞台という時、何とも世は無常であるとしみじみ感じたものである。
 最愛の奥様と4人のお子様を残してと思う時、胸が痛む。
 安倍総理が実行委員長として弔辞を読まれたが、ありきたりの表現でなく、心のこもった人間関係に触れながら、何とも味のある中身ある追悼の辞であった。
 長くこの世界にいて歴代総理の弔辞、別れの挨拶に触れる機会があったが、安倍総理は何時もさまざまな出会い、巡り合わせをしっかりと表し、心に沁みるお話をされる。これだけでも名宰相(めいさいしょう)と言って良いだろう。
 人生、まさに最後の締めくくりの時の挨拶の重みを知らされたものである。
 森喜朗元総理もお別れの言葉を述べられたが、森元総理も的確にポイントをついた色々なエピソードを入れながら、何とも味のある心こもったお別れの辞であった。
 特に亡くなる前日の7月24日お見舞いに行った時、一番下の娘さんあずささんから戴いた手紙を読まれ多くの人の涙を誘った。
 「お父さんほど真面目な人はいません。お父さんほど働く人はいません。お父さんは大臣になりたかったけど、なれなくてごめんなと家族にあやまりました。森先生、お父さんが元気になったら大臣になれるようお願いします」と書かれていた。
 自分の人生の終末を知りながらの木村太郎さんの一言に政治家としてやり残したことがある。もう一踏ん張りしたかったという思いが伝わって来て、私も涙したものである。そして森元総理の人情に触れ感激した。
 この娘さんの手紙を聞きながら、ふと娘貴子のことを想い出した。
 小学生の時「お父さんは英語ができないから私が英語を勉強して将来お父さんの通訳をしてあげる」といつも言っていた。
 そして高校・大学とカナダに留学し、英語を勉強したが、私が国策捜査に遭い、その機会は未だ訪れていない。
 人生、自分の計算通り、思い通りいかないものだと思いながら、木村太郎さんのご冥福と、後を継ぐ弟さん木村次郎さんの必勝が何よりのお返しだと強く思った次第だ。