元沖縄県知事の大田昌秀氏が92歳の生涯を終えた。ご本人の誕生日に旅立つ巡り合わせとなったが、人生を全うしたということか。
 新聞報道は平和希求の第一人者的論調である。「平和」を求めるのは当たり前のことで、どうしたら平和を維持できるかが政治の責任であり、価値ではないか。
それなりの人が亡くなられると良い面だけが表に出る。また、美化される風潮がある。
私も大田元知事とはさまざまな出会い、想い出が脳裏をかすめる。新聞、報道に出ていないことを読者の皆さんにお知らせしたい。
 平成8年、初めての小選挙区制での衆院総選挙で大田知事は嘉数知賢氏を比例で当選できる順位にと言ってきた。
当時、自民党の副幹事長で選挙担当だった私は自民党員獲得が多かった下地幹郎氏を上にその下に嘉数氏を列ね二人とも救える形にした。大田さんは権力に敏感であったとつくづく思ったものだった。
 平成9年橋本改造内閣で沖縄開発庁長官に就任してからは何度となく会う機会も増えたが、予算の面でも大田流の判断があった。
 一昨年完成した宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋についても伊良部の若者が橋を作ってほしいという声に対し、県は全く相手にしなかったが私は地元の声を尊重し、予算付けをしたものである。
 大田氏は自分にとっての忖度をよく考えていると思ったものだ。心からのご冥福をお祈りしたい。
 朝の便で富山に飛び、13時から富山新聞社で「対露外交の行方」というタイトルで講演。
 富山県と北海道はさまざまな歴史、接点がある。黒部市と根室市は姉妹都市でもある。私の師匠である中川一郎先生のお父さんも富山県の出身で高橋北海道知事も富山県出身でさまざまな縁を感じながらお話させて戴いた。
 18時から私の富山後援会会合をし、交流を深めることにする。