昨日、国立劇場での政府主催の東日本大震災追悼式に出ながらも、改めてあの日を思い起こした次第である。

平成23年3月11日14時46分、私は喜連川社会復帰促進センターでお年寄りを車椅子に乗せ、入浴場へ送る途中だった。大きな揺れがドーンときて、その後、断続的に揺れが押し寄せてきた。お年寄りを怪我させてはいけないと、立っていられないのでしゃがんで車椅子を押さえていた。しばらくすると大きな揺れはなくなり、無事部屋に戻す事が出来た。

地震発生の1時間前、秘書と弁護士が面会に来ていたので、地震発生時、ちょうど高速に乗ったかどうかの時間だったので、高速道路で事故に遭うのではと心配したり、同時に東京はどうなっているのだろうか、家族の事や宮城県にいる親戚の事など、次から次に心配事が頭をよぎった。

11日夕方、安否確認の手紙を出すことが許され速達(そくたつ)で、「こちらは大丈夫だが、みんなは大丈夫か」と書いた。12日夕方、電報が届き、「家族は長野の貴子も含め問題なし。宮城の親戚も一部連絡取れないが、大丈夫だ」との内容だった。

 ラジオで大変な状況を聴きながら、地震発生から3日目にNHKテレビを見ることができ、人が物が流されている、いや吸い込まれていく光景を見て唖然としたものである。

一番安全な場所にいる事に申し訳なさと、一日も早く出て社会貢献しなくてはと思い、保釈されたら国会議員を5人集めて公(おおやけ)の政党を作ろうと決意したものである。それが新党大地・真民主、略称・新党大地である。

 あの地震を機に、私は吹っ切れた。それまでは、何故ここにいなければならないのか。国策捜査に悶々(もんもん)とした思いだったが、あの日を境(さかい)に生きている、生かされている事に感謝しながら、負けてたまるか、生きていれば良い事がある、いや生きていれば逆転もあると自分に言い聞かせ、前向きになったものである。

「天変地異(てんぺんちい)」が多くの人の人生を変えるが、昨日も、岩手、宮城、福島の遺族代表の3人の挨拶を聞きながら、家族を故郷を失った人達の叫びとも言うべき言葉に、ただただ頭(こうべ)を垂れたものである。

 不平不満が渦巻く現代だが、突然の自然災害で最愛の夫を妻を親を子供を失った人がいる。生きたくても生きられなかった人がいる。

そうした人を思う時、生きていられる我々は幸せ者であるという気持ちを持ちたいものである。

 一日も早い復興を、みんなで手を合わせて実現したいものだ。