イスラエル中部エタニヤに「スギハラ通り」が出来たとテレビ・新聞で報道されている。
 昭和15年7月、当時の松岡洋右外相の「ビザを出してはならない」という訓令に背いて「人として当たり前のことをしよう」と6000人のユダヤ人を救った「命のビザ」は、今は世界的に素晴らしい人道行為として評価されている。
 ナチスヒットラーが破竹の進撃をしている時、ユダヤ人は日本のビザをもらってロシア経由、シベリア鉄道を使ってナホトカから舞鶴、横浜に来てアメリカ、上海に生きる道を探したのである。
 平成3年10月、私が外務政務次官の時、リトアニア、ラトビア、エストニア、いわゆるバルト3国と51年振りの外交関係樹立の為、政府特使として派遣されることになった。
 その時、リトアニアと言えば「杉原千畝だ」と想い、名誉回復を考えた。杉原幸子夫人の「6000人の命のビザ」を読んで感激したからである。同時に人道的外交官 杉原千畝の名声は世界で認知されていた。
 その時、「外務省は名誉回復する必要はない。戦後のリストラの中での外務省退官であり、訓令違反で処分したわけではない」との話だった。
しかし私は、本人が岡崎事務次官から「例の件でやめてもらう」と言われ、その後、外務省と一切係りを持たなかった。本人の認識がそうであっあったなら、私はご家族に名誉回復を伝えるのが当たり前でないかと外務省に厳しく迫った。
 当時の外務省佐藤官房長は3日目にして鈴木政務次官の判断にお任せしますと言ってきた。
 25年前のことになるが、当時の外務省幹部は今も生存されている。あの時の態度、考えを今でも正しいと思っているのだろうか。 
 平成3年10月3日私がご遺族に飯倉公館で謝罪し、名誉回復を伝えた後、何人もの若い外交官が「政務次官、我々の仕事の励みになります。有難うございました」と言ってきた。今も現役の外交として日本外交の為に日の丸を背に国益を考え働いている。
 私はよく15年前のムネオバッシングの時、「役人を恫喝した」と言われたが、しっかり頑張っている者に対しては労いと尊敬の念を持って付き合った。
 一方、上から目線で聞く耳を持たない、さらには説明もショートカットし、おまけに嘘の説明をする者には厳しかっただけである。
 「スギハラ通り」が出来たことにイスラエルの心ある皆さんに感謝したい。
 杉原記念館の修繕費の費用集めをしているが、もうしばらく募金活動をして行きたいと考えている。心ある人は次の所にご協力戴ければ幸いである。

りそな銀行 衆議院支店 普通 0071048
口座名 カウナス杉原千畝記念館修繕をする会 代表 鈴木宗男