昨日、日本人抑留者の記事について触れたが、今日の読売新聞朝刊「編集手帳」、北海道新聞朝刊「卓上四季」を読み、胸が痛む。

 読者の皆さんに全文紹介したい。

 悲しみに打ちひしがれた人に出会うたび、「時」が心の傷を早く癒してくれればいい、と思う。間違っているのかもしれない シベリアに抑留された次男(茂二郎)が飢えと病気で死亡したとの知らせを受けて、歌人の窪田空穂は一言を詠んでいる。<親といへば我ひとりなり茂二郎 生きをるわれを悲しませ居よ>。いつまでも悲しませつづけてくれ。悲しむという行為のほかには、もはやおまえに愛情を注ぐすべはないのだから、と 本紙の全段6Pにわたってぎっしり並ぶ人名の一人ひとりが、空穂にとっての茂二郎であったのだろう 先の大戦後、旧ソ連の設置した収容所などで死亡した日本人抑留者の名簿を厚生労働者が新たに公表した。のべ1万723人、それぞれの遺族が肉親のつらい最期に想像をめぐらせ、胸を痛めてきただろう歳月を思う <家畜にも劣るさまもて 殺されて死にゆけるなり…>空穂に『捕虜の死』と題する長歌がある。歌は結ばれている。<むごきかな あはれむごきかな かはゆき吾子>。いのちが詰まっているせいだろう。読み終えた朝刊が、きょうはやけに手に重い。(読売新聞)

 1946年夏。北朝鮮・清津港はシベリアから運ばれた日本の傷病兵であふれていた。テントや小学校跡が生活の場となり、医者がいないため、病人同士で看病し合うしかなかった。栄養失調や赤痢で亡くなる人が相次ぎ、ハエが飛び回る中、日本に帰りたいと涙を流し、戦友は次々に死んでいった 先の大戦後、旧ソ連の収容所に抑留され、北朝鮮から帰還した江別市の男性が本紙に語った証言である。皆傷つき、誰が先に逝くか分からない。近くの丘の上の墓標は日を追って増えていく。今、読んでも胸が締め付けられる 厚生労働省は今回初めて、北朝鮮や南樺太、北方領土などシベリア以外で亡くなった抑留者名簿を発表した。10年近く前にロシアから入手していたのに、なぜここまで遅れたのか この間に遺族は高齢化し、亡くなった方も多いはずだ。厚労省は入手した名簿を今回ですべて公表し終えたというが、全体の一部にすぎないとの指摘もある 北朝鮮や南樺太で抑留された人は、戦前から居住していた民間人が多い。詳しい実態は分かっていない。ロシア政府とも協力して早急に解明するのが、異国で旅立った犠牲者へのせめてもの供養だ 帰還者に給付金を支給する制度があるが、対象は旧ソ連とモンゴルで抑留された人に限られている。これも見直さねばならないだろう。戦後70年はいまだに通過点との思いを強くする。(北海道新聞)

 ゴールデンウィークに入り、各地での行楽状況について報道されているが、休みの時にこそ、一寸時間を取って歴史を、人生を振り返ることも必要ではないかと思う。
 そして今生きている、生かされていることに感謝することが大事ではないかとつくづく考える私である。