安倍首相が昨日、イスラエルの国立ホロコースト記念館で挨拶をし、その中で「私たちの先人には、杉原千畝がいます。彼のビザで日本に向かったユダヤ難民を助けた人々も、少なからずいました。彼らの勇気に、私たちは倣いたいと思います」(朝日新聞4面)と述べている。
 杉原千畝さんは戦後、外務省から解雇されている。杉原さんご本人は当時(昭和15年)ビザを出してはいけないという外務省の訓令に背いてビザを出し、そのことで首になったと思い外務省との関係をたち傷心の思いで亡くなっている。
 平成3年10月、私は外務政務次官として51年振りの外交関係樹立のため日本政府特使としてバルト3国を訪問することになり、その際、リトアニアといえば杉原千畝副領事だと頭に浮び、10月3日、杉原幸子夫人、ご長男夫妻を外務省の飯倉公館にお招きし、謝罪し、杉原さんを称え44年振りの和解をしたものである。
 そして平成12年10月10日、外務省外交史料館に杉原千畝さんの顕彰プレートの除幕式を行ったものである。
 平成3年10月、杉原さんの名誉回復を私が言い出した時、外務省は「する必要なし」との考えで私に反発した。私は「人道的に世界が評価している杉原さんを何故否定するのか。素晴らしい先輩がいたことをどうして誇りに思わないのか」と3日かけて説得し、最後は佐藤官房長(当時)から「政務次官の判断にお任せします」と言質を取り、名誉回復にこぎつけたものである。この厳粛な事実を読者の皆様にはよく理解してほしい。
 今になって首相スピーチにも引用させる外務官僚だが、平成3年10月の姿勢・態度はどうだったのか。
 杉原さんの件に限らず、平成9年の対馬丸発見でも厚生省(当時)は反対した。私は押し切り、対馬丸を発見し遺族の皆様は大変感謝し喜んで下さった。
 私の今までの政治生活の中で杉原千畝さんの名誉回復と対馬丸発見は鈴木宗男だから成し遂げたものだと自負している。
 これからも生きている限り失ってはいけない「心」を私は持ち続け、悪しき声、判断には立ち向かっていく決意である。