昨日のムネオ日記で沖縄慰霊の日に触れたが、今日は沖縄の学童疎開船対馬丸のことについて読者の皆さんにお知らせしたい。
 昭和19年8月に学童疎開船「対馬丸」が米軍に撃沈され、約1500人の子供達が犠牲になった。今年はあれから70年の節目の年である。実は対馬丸を発見に尽力したのは私である。
 平成9年9月11日、橋本龍太郎第2次改造内閣で私は国務大臣沖縄開発庁長官を拝命した。
 大臣就任後、対馬丸遭難遺族会 喜屋武盛榮会長が「鈴木大臣、今迄歴代大臣に対馬丸の沈没地点を発見して下さいとお願いして来ましたが、今だ実現されていません。鈴木大臣なら沖縄のことを、対馬丸遺族会のことを理解してくれると思いやって参りました」と涙ながらに話された。
 私は二つ返事で「よし、やりましょう」と答えた。そこで問題になったのが厚生省援護局だった。その時の厚生大臣は小泉純一郎氏で、厚生省は「先の大戦では3000隻の船が沈んでいる。1隻探せば他の船にも影響がでるので予算は出せない」との考えで埒らちが明かない。私は軍艦戦闘艦なら海は安寧あんねいの場といえるが、何よりも罪もない学童疎開船だ、探す義務があるのではと強く迫ったが、小泉大臣はじめ厚生省は全く協力するそぶりはなく、最後は「どうしてもやりたいなら」「勝手にやってくれ」と言うことになった。
 私は意を決して科学技術庁の深海調査研究船「かいれい」を頼み、更に海上自衛隊にアメリカから当時のボルフィン魚雷艇の資料をもらうよう依頼した。
 海底探査船はびっしり日程が入っていたが、12月上旬2週間対馬丸の発見に向かいますと科技庁が配慮してくれた。
 12月7日、資料に基づき調査すると電破反応があり、12日カメラを付けてその場所に再度潜ると海に横たわる対馬丸が浮かび上がったのである。53年間待ち望んでいた遺族会や生存者の思いが実ったのである。
 その時私は「かいれい」を那覇港で出迎えた。何とも言えぬ感慨を覚えたことを今も鮮明に覚えている。
 平成10年3月、対馬丸沈没地点で洋上慰霊祭を行うことになり厚生省から小泉大臣も出席したいという連絡が私のところに来たので「発見に反対しておきながら、いいとこ取りは許さない」と拒否した。
 その後、何回も頼みに来たので最後は私もしかたなく了解した。
 しかし官僚の心無さ、上から目線のやり方に私は事実関係はきちんと残しておかなくてはならないと思い、担当局長・課長から対馬丸遺族会 喜屋武会長宛に一筆書いてもらうことにした。
 その時の文章を全文明らかにしたい。

対馬丸の船体確認に対する厚生省の考え方


平成11年5月26日

対馬丸遭難者遺族会会長
      喜屋武 盛榮 殿

厚生省社会・援護局長
炭谷 茂
厚生省社会・援護局援護企画課長
松永正史


1 ①海自体が戦没者の永眠の場という考え方もあり、原則として艦船の遭難者の遺骨収集は行わない。②約3,000隻の沈没艦船がある中で、対馬丸の船体確認を行えば、他の沈没艦船にも影響が出る。
 と考え、対馬丸の船体確認に対して厚生省はできないという立場でした。

2 しかしながら、対馬丸は、その遭難が沖縄戦が目前に迫った時期に政府の軍事政策に協力するという形で学童疎開が行われた途中に生じたという特別の事情があり、また、沖縄開発庁長官から対馬丸の沈没位置確認についての要請が関係省庁に対してなされ、科学技術庁、防衛庁等のご尽力も得て平成9年12月にその正確な沈没地点の特定ができました。これもひとえに鈴木沖縄開発庁長官(当時)の適切な御指導御鞭撻のお蔭と深く感謝申し上げる次第です。

3 対馬丸についての上記の特別の事情を考えれば、その船体確認につき厚生省としては、当初から積極的に御協力すべきであったと心から反省し、遺族会を始め関係者にお詫びするものであります。

 1の最後の表現は当初「厚生省は消極的でした」となっていたが、「厚生省は出来ないという立場でした」に直させた。3の「積極的に御協力すべきであったと考えております」と反省の気持ちがなかったので「心から反省し遺族会を始め関係者にお詫びするものです」に改めさせた。
 対馬丸発見により「対馬丸記念館」の予算獲得にも私は汗をかいたのである。
 私の政治生活の中でこの対馬丸発見と杉原千畝元外交官の名誉回復は最も心に残り、又、誇りに思う仕事だったと今も心している。
 杉原千畝氏の名誉回復にも外務官僚の強い抵抗があったが、押し切った。いずれ読者の皆さんに詳細を報告したいと考えている。