2024年1月7日 から『光る君へ』というドラマがNHKで放送されているようである。

 

「光る君へ」というもののこのドラマは『源氏物語』の筆者の紫式部のお話しで、光源氏は登場しそうにないが、『源氏物語』つながりということで『源氏物語』に描かれている「須磨」について考えてみた。

 

「須磨」を「須摩提」(浄土)と読めば、『源氏物語』の12帖「須磨」と41帖の「雲隠」とが対になって『源氏物語』のテーマの煩悩即菩提を示していることが明瞭にわかる。

 

『源氏物語』のテーマは「因果応報」といわれることもあるらしいが、菩提を得るという目的や煩悩即菩提というテーマがなければ、『源氏物語』は昼ドラと変わりない、気がする。「因果応報」は昼ドラでも描かれることが多い、だろう。「須磨」と「雲隠」を読んで「曇摩迦菩薩」と『大阿弥陀経』を想起できなければ『源氏物語』の読後感は昼ドラの感想と変わらない。

 

『和子/源氏物語』というサイトの「第12帖
須磨」の「あらすじ」によると、

朧月夜の姫との密会が露見して、源氏の君は官位を剥奪され、更なる流刑などを怖れて、自ら須磨へ退く決心をします。都から隔絶された海辺の須磨で源氏の君の侘びしさは募るばかりでした。
ある日激しい暴風雨に襲われました。明け方見た夢に怪しい物影が現れ、源氏の君は須磨を離れたいと思われました。(源氏26~27歳)

とある。

 

光源氏は須磨へ流刑にされたのではないのである。流刑にされそうだと思って、須磨へ逃れただけで、『源氏物語』で須磨が流刑地とはっきりいっているわけではない。また、光源氏のモデルの一人といわれている在原行平も須磨に流刑にされたどうかは定かではないらしいし、須磨に流刑にされて須磨の地で亡くなったという話は残っていないようである。須磨を流刑地というイメージで見ると暗いイメージになりがちなので注意が必要だろう。須磨の景色は美しいが、光源氏の心が浮かないだけである。

 

 

『源氏物語』の 第12帖 「須磨」には、以下のような記述がある。

 

原文

前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、 紫苑色などたてまつりて、 こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、「釈迦牟尼仏の弟子」と名のりて、ゆるるかに読みたまへる、また世に知らず聞こゆ。

 

現代語訳

前栽の花が、さまざまに咲き乱れた趣のある夕べ、海の見える廊に出て、たたずんでいる君の姿は、空おそろしいほど清らかで、場所柄、この世のものとも思われなかった。白い綾のやわらかな下着を着て、紫苑色の重ねをはおり、濃い縹色の直衣を召されて、帯をしどけなく乱れた風にした様子をして、「釈迦牟尼仏の弟子」と名のって、ゆっくりと経を読む声は、たとえようもなく聞こえた。

と。

 

『源氏物語』の光源氏の描写で最も美しい場面と思われる。絵に描かれることが多い場面である。

『伝海北友雪筆『源氏物語』絵巻(須磨)』

 

 

私は勝手に、

 

色とりどりの花々が咲いた庭と海を望む廊(舞台)に佇む光源氏が、背後からさす夕日と海から反射する光に照らされ、縹色の直衣が紫苑(仏陀の袈裟の色)に輝き、須磨(須摩提)とういう場所柄もあって、この世のものとは思えないほど美しかった。

 

と、雅でなく幽玄に近い情景であると、解釈しているのだが、一般的な解釈では

「釈迦牟尼仏の弟子」
と名のって、ゆっくりと経を読む

というくだりが、唐突な感じがして不自然というのが、普通の読み方らしい。

 

「紫苑色の重ね」の「紫苑色」を調べると、

紫色の一種のようで、紫は仏陀の袈裟の色という説があることから考えると「紫苑色の重ね」は、縹色の直衣が夕日に照らされて紫苑色に輝く(実際の光線の加減は不明)ことと、光源氏を仏陀に見立てて描写することを暗示していると思われる。

 

黒(紫)→仏陀の袈裟の色。侮辱や迫害に怒りを抑えて耐え忍ぶ「忍辱(にんにく)」を表わす。

 

「紫苑色」が仏陀の袈裟の色を暗示していると考えれば、「釈迦牟尼仏の弟子」と言って、経を唱えるという流れに無理はない、だろう。ただし「雲隠」まで読んで行くと、「釈迦牟尼の弟子」が、じつは曇摩迦(曇摩迦菩薩)を暗示っしているのではないかと、だんだんと思い浮かぶよう、仕組まれているような気がする。

 

ただ、「所からは」(現代語で「場所柄」)という語を、ただ美しい景色が眺められる場所という光源氏が佇んでいる場所の情景を「場所柄」としてしまえば、「須磨じゃなくても、瀬田でもいいんじゃないか」と思ってしまう。

 

これでは「須磨」で物語が語られる必然性が薄いように思われる。

 

『源氏物語』の都(色恋沙汰)を離れて、物寂しい(寂静?)須磨の閑居で隠遁生活をと考えたとすれば、「須磨」を「須摩提(しゅまだい)」を暗示する場所として描いていると考えれば、さらに自然な流れで読めるのではないだろうか。

 

ついでに言うなら、須磨が須摩提を暗示しているとすれば、ここで光源氏が唱えた経は『大阿弥陀経』と推理できる。この経の曇摩迦の「二十四願」『大阿弥陀経』訳注 (一)の女性に関連する願いは、光源氏への皮肉にしか聞こえない。

 

隠遁生活に耐えられず女性のいる明石へ移って、けっきょく、都へもどってしまうのだから、わざわざ、須磨に行く必要もなく思えるが、12帖「須磨」で得られなかった諦観を54帖「雲隠」で得ただろうということを、示唆するための構成のように思うのだが、考え過ぎだろうか。

 

12帖の「須磨」で、光源氏(曇摩迦)が都に戻って煩悩まみれの生き方をした末に寿命とともに菩提を得て、54帖「雲隠」で光源氏が菩提を得る(曇摩迦が曇摩迦菩薩になる)ことを暗示しているという読み方はできないものだろうか。

 

曇摩迦菩薩の「曇」という語を使って、光源氏の光〈煩悩〉が雲で隠れることを「雲隠」(「曇」を雲で空が覆われて日の光が雲に隠れることと解釈した)と呼んでいるのではないだろうか。

 

曇摩迦が菩提を得て菩薩になることになぞらえて、光源氏の成仏を暗示いるように思われてならない。

 

紫式部は、光源氏の「光」を煩悩として、「雲隠」でその「光」が雲に隠れ曇天になることと、この「曇」で曇摩迦の逸話を想起させることを狙ったのではないだろうか。

 

また、須磨の別表記の「須摩」と読んで、極楽浄土(須摩提)に「提」が欠けていると見れば、光源氏は煩悩を捨てようと須磨へ行きながら、煩悩を提て都へ戻ったことを暗示しているとも、いえそうだ。

 

『源氏物語』「須磨」には、

憂きものと思ひ捨てつる世も、今はと住み離れなむことを思すには、いと捨てがたきこと多かる

「捨てがたきこと多かる」とあり、この捨てがたきことが隠遁生活の失敗の原因(生きんとする意志の肯定)と思われる。

 

先に引用した場所の少し前に、

 

原文

つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。人びとの語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく描き集めたまへり。

現代語訳

つれづれなるままに、色々の紙を継いで手習いをし、珍しい唐の綾などにさまざまな絵を描いたりし、屏風にはる絵などは実に見事であった。人から伝え聞いた海山の有様を、想像していたのだが、目の前に見て、想像の及ばない磯のたたずまいなどを、実に上手に描いた。

とある。

 

「いとめでたく見所あり」と、光源氏が、絵を上手に描いたことが書かれている。

 

この風景は、ただ寂しいものだったのだろうか。「二なく描き集めたまへり」というのは光源氏が表象したままを描く能力が優れているという意味だと思うが、それは、美しい景色でなければ絵にならないのではないだろうか。

 

「人びとの語り聞こえし海山のありさま」は、そうとう美しい景色という意味ではないだろうか。

 

この美しい景色に囲まれていても、堪えがたく悲しく寂しい思いをするというのは、光源氏が「捨てがたきこと」が捨てられないからではないだろうか。

 

54帖の「雲隠」には何も書いてないらしいが、光源氏が「捨てがたきこと」を捨てて(年老いて捨てざるをえない状況になっただけかもしれない)、覚りに近づいた(諦観:生きんとする意志の否定)ことを暗示しているとするなら、「雲隠」での光源氏の生活は、「須磨」での隠遁生活から「捨てがたきこと」を捨てた美しいもの(寂静)であったろうということは、容易に想像できるだろう。

 

光源氏は、須磨では菩提を得ることができず俗世間に戻っていったが、「雲隠」では菩提を得て須摩提(しゅまだい)、つまり極楽浄土へ行ったであろうことが、「須磨」と「雲隠」で暗示されているように思われる。

 

「須磨」では「菩提」が隠されていて、「雲隠」れでは「須磨」で隠されていた「菩提」が暗示されている。「菩提」自体存在するかしないかわからないものだから、あえて書かず、読者のご想像にお任せしますということではないだろうか。また、『源氏物語』のテーマが「煩悩即菩提」で主人公の目的が「菩提を得る」だとすれば、物語は煩悩について物語られ、主人公の目的である菩提を得たゴール後の世界(菩提を得た後の光源氏の生活)が物語られないことは、むしろ当然ともいえる。

 

「須磨」と「雲隠」があることで、光源氏の人生のあれやこれやが、煩悩即菩提であったことをより明瞭にしている、気がしてならない。

 

『源氏物語』は、意志の肯定と否定について書かれているショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』第4巻に似ている。そして、光源氏死後の物語の宇治10帖は、「余禄と補遺」の「幸福について」に似ている。

 

ショーペンハウアーを誤読して、むやみに意志の肯定を触れてまわる『ツァラトゥストラはかく語り』という文学作品を書いたニーチェが哲学者(ニーチェを誤読した人が戦争を起こしたりするらしい)なら、『源氏物語』を書いた紫式部はニーチェを超える大思想家である、気がしないでもない。

 

紫式部は、たんに最古の長編小説の作家なのではなく、日本初かつ日本で最も優れた女性思想家なのではないだろうか。

 

『源氏物語』の原文と現代語訳は「A Cup of Coffee」というサイトの

に、「あらすじ」は『和子/源氏物語』というサイトによった。

 

 

※「須摩」と「須摩提(しゅまだい)」についての補足

このブログの別の場所で『平家物語』の「須磨」の表記に触れた場所で「須摩」と書かれている場合があると書いた。「常用漢字」が決められる以前は色々な表記があり、「磨」は「摩」と書くことがあったようで、同様の例として播磨があるそうだ。

 

播磨も「磨」を「摩」と書いて「播摩」と書くことがあったようで、「詳細検索-全国遺跡報告総覧」で、播磨を検索すると表記の揺れとして播摩が書かれている。

 

また、「神戸市須磨区における方言漢字『磨』の研究」というのもあるようだが、著者自身が「本稿は須磨における『磨』の字体使用の状況調査に限定したが,この仮説の立証には,例えば 播磨・飾磨・球磨や,『摩』をもつ多摩や薩摩といった他地域における調査が必要である。」と書いておられるように、「常用漢字」のなかった時代の漢字の用例を集めるのは大変な作業だろう、たぶん。

 

須磨は地名だけでなく、須磨という苗字もあり、同じ読みで須摩と書く事例もかなりあるようだ。苗字の事例では、使用例だけを集めても、同じものを指す語なのか、同じ語源なのか、はたまたどこかで混同があるのか、などは判断できないのではないだろうか。

 

須磨さんは地名由来で須摩さんはその異字体といえれば簡単だが、極楽さんや浄土さん天国さんという苗字もあるくらいだから、須摩さんの由来が「須摩提」で須磨さんの由来が地名の須磨ということもあり得るかもしれない。堂々巡りである。もし、地名の須磨の由来が「須摩提」だったら、「磨」が「摩」の方言といえるかもしれない。

 

地名の「須磨」の由来や語源が不明確なのにどうやって「磨」が「摩」の方言と判別するのだろうか。『平家物語』の文脈を超越して「鵯越」の場所を探すのに似ている気がする。

 

素人考えだが、表記の揺れとしかいえない気がする。

 

ただ、須磨の「磨」が方言なのだとすれば、標準的な漢字で書けば須磨は須摩ということになるのだろうか、もしそうなら、須磨が「須摩提」の可能性が少し高くなるのではないだろうか?

 

なお、「須摩提(しゅまだい)」の「提」の省略については「閻浮提(えんぶだい)」の事例がある。「閻浮提(えんぶだい)」は「世界の中心である須弥山 (しゅみせん) の四方にある大陸のうち、南方にあ」るとされる大陸の名前で「閻浮(えんぶ)」と略される例がみられる。「須摩提(しゅまだい)」と「閻浮提(えんぶだい)」を、土地の名前という意味で地名と考えれば、同じ「地名」というジャンルでの「提」の省略の事例といえるだろう。