『平家物語』の延慶本には「鵯越」のほかに「腰越」という語がある。

 

『広辞苑 第五版』によると

こしごえ【腰越】_鎌倉市南西部、七里ヶ浜西端の地名。古い宿駅で、源義経が腰越状を草した所。日蓮法難の地としても知られる。_幸若舞の一。義経が腰越状を弁慶に書かせたことを作る。

ということらしい。

 

「腰越地域の概要 - 鎌倉市」には、

地形から見て、北側に小山が連なり、南は海に向かって肥えた土地が広がり、人々は肥えた土地を求めて山の腰を越えるようにして移ってきました。そこで、山の腰を越えることから「腰越」になったと言われています。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shisyo/kosigoe_gaiyo.html

と書いてあった。

 

どうやら「越」は道を表すようだ。

 

越えといえばやはり「天城越え」だと思い「天城越」を調べてみると『広辞苑 第五版』には、

あまぎごえ【天城越え】○(1)[文]松本清張の小説。母の情事を目撃した14歳の少年が家出し、天城峠で優しい娼婦ハナ(田中裕子)と出会う。少年が犯した殺人事件の容疑者として女が逮捕され獄中で死亡したことを、数年後に担当刑事から知らされる。○(2)[映]1983(昭和58)封切りの松竹映画。監督:三村晴彦。出演:渡瀬恒彦・田中裕子・吉行和子・樹木希林・平幹二朗・加藤剛(ゴウ)・中野誠也。○(3)[楽]吉岡治作詞、弦哲也作曲の歌謡曲。歌は石川さゆり。◎1986. 7.21(昭和61)発売。

と書いてあった。

 

たしかに石川さゆりさんの「天城越え」が一番最初に浮かぶのだが、ちょっと違った。※ちなみに『天城越え』の歌詞は北条政子をモチーフにして書いたそうだ。

 

ネットを調べると、

「【ブラタモリ伊豆・天城越え編】全内容・ルートを写真でまとめと要約!」

という記事があった。

 

それによると、天城越えのルートは25.1キロあるらしい。

 

「越」はやっぱり道のようだ。

 

「越」について『広辞苑 第五版』で調べると、

ごえ【越え】_接尾_地名(国や峠の名など)に添えて、そこを越える、また、その道(すじ)の意を表す。「伊賀―」

と書いてあった。やっぱりである。

 

「道(すじ)」を英語でいえばroute(ルート)ということだから、天城山(峠)を越えるルートを天城越えと考えればよいようだ。

 

『広辞苑 第五版』で、ほかの「越」の用例を調べてみると、

りゅうげ‐ごえ【竜華越】京都市左京区大原小出石町から滋賀県大津市竜華に至る峠道。京都北門の要害。途中越とちゆうごえ。

しが‐やま【滋賀山・志賀山】滋賀県大津市の西にある山。この山を越え京都白川へ出る山道を、滋賀の山越えまたは山中越え・白川越えという。標高421メートル。_―‐でら【志賀山寺】

しが‐の‐やまごえ【滋賀の山越え・志賀の山越え】近江国大津から京都北白川に出る峠道。

しらかわ‐ごえ【白川越え】‥カハ‥(→)「しがのやまごえ」に同じ。

たんば‐ごえ【丹波越え】_京都から丹波国に向けて山を越えること。_転じて、かけおち。逃亡。好色五人女3「―の身となりて」

おうさか‐ごえ【逢坂越え】アフ‥伊勢の内宮ないくう・神路山かみじやまから志摩国的矢まとやに出る逢坂山路。

ただ‐こえ【直越え】まっすぐに越えること。多く奈良から大坂に越える生駒の草香越えにいう。万葉集6「―のこの道にしておしてるや難波の海と名づけけらしも」

いが‐ごえ【伊賀越え】奈良時代の官道。大和から山城の笠置を経、伊賀の柘植つげに出て、鈴鹿関に通じた街道の称。

ひめ‐かいどう【姫街道】‥ダウ(女性が多く通ったのでいう) 江戸時代の東海道の脇往還わきおうかんの一で、遠江浜名湖の今切いまぎれ渡しと新居あらいの関を嫌う者が、見附または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油ごゆまたは吉田に出た道。本坂越え。

などがあった。

 

大津市と京都市の間のルートを示す、途中越(7.4km)や山中越え(9.9km)は今でも日常生活で使う。

 

姫街道は『信長公記』に出てくる「本坂越」だ。

「五街道の旅」

http://home.e02.itscom.net/tabi/himekaido/himekaido.html

によると、姫街道(本坂越)は60Kmもあるらしい。

 

伊賀越えも大和国から鈴鹿関(三重県亀山市関町新所)までだとすると、60Kmくらいありそうだ。

 

どうやら「越」はかなり長いルートにも使える語のようだ。

 

「鵯越」が、神戸市兵庫区鵯町から藍那まで(鵯越でなく義経道というそうだ)だとすると10km程度のようなので、途中越(7.4km)や山中越え(9.9km)と同じくらいの距離になるが「越」というには、物足りない気がする。有馬街道にあったという天王谷越え(兵庫区平野から北区山田町下谷上あたりと仮定すると8kmほど)と比べても鵯越は険しい道ではないように思う。逆落としがあったと主張されている場所は崖になっているようだが、鵯越の碑から神戸市立鵯越墓園の中を通り抜けるコースは、造成したためか、ほかの「越」のつくルートと比べると緩斜面のような気がする。

 

 

 

「越」を調べたついでに

 

『広辞苑 第五版』で「鉄拐山」を調べてみたら、

てっかい‐さん【鉄枴山】神戸市の西境、六甲山地の南西端の山。標高237メートル。北に鵯越ひよどりごえ、南西に鉢伏山、南東麓に一谷があって、源平の古戦場として名高い。須磨から垂水への道が通る。鉄枴峰。

と書いてあった。

 

「てっかいさん」の「かい」は「拐」が正しいので「枴」は誤植である。また、「北に鵯越ひよどりごえ、南西に鉢伏山、南東麓に一谷があって」とあるが、鉄拐山の北に鵯越があると一の谷へ下るのに鉄拐山を越えなければならなくなるので、鵯越があるとすれば鉄拐山の尾根または南斜面になければならない。伝承によれば「南に鵯越ひよどりごえの逆落とし、南西に鉢伏山、南東麓に一谷があって」となる。